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2014/12/01  まだ寝ないよ
あっという間に師走で、月日の早さにはいつも驚かされます。びっくりした。
それと自分の仕事の進まなさにかなりびっくりした。もうこの先どうなっちゃうんだろう…やばい…みたいな毎日です。というか自分で仕事放置してたからんだけどね。やばい。

さて、気付かれた方どれだけいるのかそもそもこのブログ見てる母数ほぼいねえだと、とわかったうえで、ちゃんと書いておく、と決めたので書こう。といって別にほんとに大した話じゃないんだけどさ。

サイト、お休みすることにしました。
何回目やねん、と自分で何回も突っ込みつつ。でも、こうして形だけでも閉ざすということは本当に楽になる。帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれない。というのは、サイトを、ということで、小説を書くのはまだ少しこれ書こうかな、とか、約束しているものがあるので、そういうのは書いていくけど、ウェブ上で小説を上げていくのがなんとなく困難な気がしてきて、ちょっと休憩。まあ、どうでもいい話。
私にだけ関係することだけど、小説を書く、ということがよくわからなくなってきた。誰に強制されたわけでもなく、誰に頼まれたわけでもなく、これでお金をもらっているわけでもなく、自分が好きだと思って書いてきたものだったけど、本当に好きだろうか、という疑問にずっとふたをしてきたように思います。好きなんだけど、嫌いって言ってしまえなかった。でも、今ははっきりと言える。嫌いだって。でももちろん、好きなんだよ。
でもね、好き、だけではなんか原動力にならなくなってきた、というのか現状です。じゃあもうそれって、書けないよね、ってことでした。私にとっては。
イベントに出たりするのはとても楽しいし、感想をもらうことはとても嬉しくて、でも、それだけじゃ終われなくなってくる。そういうのがすごくしんどかった。どうでもいいな。これまじ。でも書いておくね。同人誌のシーンにおける話とか、なんかそういう小難しいことはどうでもよくって、私は自分のために書いていたはずなのに、一番楽しんでいたはずの私自身が耐えられなくなってる。これが問題だったのね。

色んな人の小説があって、色んな人の言葉がある。くそみたいなものもあれば心をえぐっていくものもある。なんかそういうことに、めまいがしてきて。平たく言えば劣等感。私の鈍い感性がここまで打ちのめされたの久しぶりです。誰のせいとか誰かの小説にやられたとかじゃなくて、ただただ自分の精気のない言葉たちがいやになった。
だからちょっと休憩。だからちょっと知らないふり。また、書きたいと思うときがくるまで、ちょっとの間、冬眠します。
耳をつぶし、目をつぶし、自分の鼓動だけを愛することができるように。

うーん、でもブログはこうやって書いていくと思うし、noteも吐きだすのにちょうどよくってツイッターは現状通りなので、いつもとかわんないんだけど、なんか背負うもんないなって(もともとなかったけど)思ったらなんかすっきりしました。ほっとした。
暫くは読む専門。漫画たくさん読んだのでBL漫画の感想もぼちぼちあげていけたらいいなあと思います。

あと、いつか復活したらHNをもうちょっとまともなものにしようかなと思う。なんかそれっぽい名前に。

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2014/11/17  あけないドアはあかない
今週末に文学フリマがあるのでとっても楽しみにしているのと同時に、相も変わらず憂鬱だったりする。自分があんまり小説を書いていないということが大きな理由かも。八つ当たりも甚だしいけども、こういう気持ちってかくしておいても仕様がないしここはまあそういうところなので包み隠さずいつもどろどろ吐きだしている。相変わらずだなあ。
それと、あれだけ多くの人が小説を書いて売っていて(もちろん小説だけじゃないけど)、そのエネルギーや才能に愕然とするのだった。みんな素敵なものを書く。作る。私みたいな矮小な人間が書いているということがおこがましく思えるのだった。なんだかとっても、残念な気分。

ただ、そんな風にひねくれてみたとしてもやっぱり楽しみの方が大きい。

先日、クリエーターズマーケットに行ってきたのだけど、好きなイラストレーターさんの顔を見てその人の作ったものを買うことができるのはすごく素敵なことだなと改めて思った。そのイラストレーターさんの作品も好きだし、笑顔も好きだ。
あと、他にも、名前はわからなかったけど友達にあげたいなあと思うブローチやピアスを見つけて買った。
そういえば、ピアスを買おうと思ったら手持ちが一万円しかなくて、でもピアスは300円でさすがに申し訳ないと思い、「お金崩したらまた来ます」と話、一時間後ぐらいに行ったら、私が買おうと思ってたピアスを取り置いてくれてて、行ったらすぐに「お待ちしてました」と声をかけてくれたのが地味に嬉しかった。可愛い子たちだったな。十代だろうなあ。えらいな。十代でああいうイベントに出るのは、ミニブースでも立派だと思う。なれないで、擦れないで、純粋に続けてほしいなあ。私の十代の頃は臆病で外には悪い病気でもあるような思いでいたから、なんだか醜かったと思う。十代の可能性を全部つぶしてた。大学で学生の文芸賞に応募して大賞をとったのも結局二十歳だったし、十代では何にもしてないや。もったいなかったなあ。もっと小説書いて色々やったらよかったのになあ。まあ、今となっては、な話だね。
あと、もう一個ピアスを買ったお店では、売り子さんがニコリとも笑わないでとっても凝視してくるタイプの人だった。「袋いれますか?」って聞かれたんだけど、彼女は手提げ袋の意味だったのに、私は包装すらしてくれないのかと思って「えっあ?」と言い淀んでいたら「手提げです」と言われて「あ、手提げはいいです。このぽち袋にはいれてくれるんですよね?」となんか嫌な聞き方したような気がする。そうしたら売り子さんはとっても綺麗な瞳できゅっと真一文字に結んだ口でうん、と頷いた。そして「何か言いかけませんでした?」と聞いてくれたけど、私はもうそれ以上一言も話せなくていいえ、と首を振るしかできなかった。瞳が大きな人って緊張する。しかも、瞬きしないで、凝視するタイプの人。彼女の瞳には、彼女にとっても美しいものがしっかりうつってるんだろうなあ、という感じがしました。

という感じで、作家さんから直接買うことができるって嬉しい。あんまり、ずいずいおすすめしてくる人は苦手なんだけどね。お客さんになんて声かけようかな、って迷ってるぐらいの人が一番好きです。まあ、自分がそのタイプだからなんだけど(笑)小さな声で「こんにちは」って言われて、あとはにこっと笑っててくれる人がいい。

で、文学フリマの話だけど、クリマとかコミティアとかとは違って文字で表現したものっていうのはその人の好みに大きく左右されると思う。だから、売り子さんも(一部を除いては)うるさくないので、私は文フリ好きです。特に純文学ブースとか短編集・詩のブースが好き。まあ、自分の好みだな。文章の。だけど、総じて、静かに穏やかに客を見守ってる人が多い気がする。もちろんコミュ障ってのも多分にあるのかもしれないけど、でも、そういう人からの方が私は買いたいなあと思う。
その人が書いたもの。その人の思うもの。声に上手くできないから、すごくいい文章を書く人がいる。口下手な人に憧れるのはそういうのもあるかも。
楽しみにしているサークルさんがいくつかあって、前回の文学フリマでも買った人だけど、でも、そうやって楽しみができるのがちょっと嬉しい。おっかけみたいで面白い。なんて声をかけようかなあ、なんて思う。でも、私もどっちかっていうとコミュ障なので大体ツイッターで喋ったことがあっても名乗れないし、声もうまくかけられない。なんかもっと気の利いたこと言えたらいいのになあ、とか思いつつも「ツイッター見てます」とか「いいですねえ」とかいうことしか言えない。この気持ち、なんて言ったらいいのかな、と巡らせていると沈黙が長くて。気付くともう一言も発せなくなっている。情けないことに。
興奮って口にだすととってもみっともないから、やっぱりあんまり興奮のままに話すのはよくないのかもしれない。あの人やこの人から本を買えたとしてもやっぱり控えめに「がんばってください」ぐらいにしておこうかなあ。

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2014/11/11  わがままな私のことなので
乱暴的な言葉が書きたいと思っても糸口が見つからないと紡げない。
乱暴的な言葉、というか、ただの愚痴なのだけれど、しかし、上手く言えないときってたくさんある。難しい。

最近仲良くなった人がいて、その人は私よりも十以上も年上なんだけどとてもアグレッシブで少年のような人だ。もちろん妻子があるのでそういう関係なわけでもなく、友達、という感じで仲良くさせてもらってる。
この間二人でご飯を食べにいってしこたま遊んできたのだけれど、その人がまた私をご飯に誘ってくれた。けれど、最近お腹の調子がよくない私としてはあんまり行きたくない。数回断ったけれど、彼はまだ誘ってくるのでちょっと面倒になってきたというのが私の本音だったりする。

強引な人は嫌いじゃないけれど、分別のない強引さはとても苦手なのだった。

私が感じるのは、彼はとても寂しがり屋なのだと思う。にぎやかなのが好きなのは寂しがり屋だからだ、と、勝手に解釈しているし、けっこう当たってるような気がする。言い方は悪いけれど誰か手頃なおもちゃを見つけては寂しさを紛らわそうとしているんだな。
もちろんあからさまに嫌な感じはしない。でも、見え隠れする強引なところにそれを感じる。そういうのがちょっと苦手だなと思う。面白い人なんだけどね。
もちろん彼も私が断っているのもわかっているんだろうけど、でも、引き下がらないところが苦手だ。別に、今後一切食事したくないとかそんなことはないし、もう少し間をあけたいだけなのにな。久しぶりに面倒だと思った。ていうか、面倒だ。

たまに意見が食い違って、私は反論するし彼はそれをそうだねえ、そういう考え方もあるよねえ、と頷いてくれる。でも、私はそうじゃないんだ、とまた余計に息苦しくなる。だって彼がそうだよねえ、と言っている私の意見は、私の意見じゃないんだ。彼が解釈した私の意見は彼の意見なんだ、と思う、上手くいえないけれど、彼が解釈しているのは、きっと、私も彼の意見を飲み込んだ上で私が反論していると思ってる。でも、私は彼の意見を1mmも受けいれられないことがあるから反論してるんだってことをに、気付いてほしいから反論する。でも、大人げないのでそんなにあからさまなことは言わない。もちろん。だからか、伝わらない。
本当は彼もバカではないから私が受け入れられないのもわかった上の対応だとしたら、ああでも、やっぱり伝わってないだろうなあというのが、私の今の気付きであり絶望だ。
彼も相当頑固なので、反論したって伝わらないんだろうなあ。私の、心の、感じ方みたいなもの。とか。きっと、やっぱり、私も彼も、どんなに言葉達者で理論でわかっていたとしても、やっぱり自分中心でしか物は見られないんだな。ああ、なんか、結局そういうことなのかな。

ああ、こんなこと書いたら、気付いたら、今度会うとき気まずいな。私だけか。あの人、色々気付くけど「気付かないこと」も身に着けているから。
人と人の関わり、ってなんだろう。どうしてこんなに、隙間が多いのかな。

今日はなんかわけわからんこと書いてしまった。
でも、ちょっとわかったものがある。よかったのか悪かったのか。

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2014/11/02  不安の名前を
今日は友人と雑貨屋にいったり買い物をしていた。明日はまた仕事なのでちょっと元気が出たけどでもやっぱり、人といると複雑な気持ちになることも多い。どっと不安が押し寄せてくる瞬間がある。どうしてだか、自分でもよくわからないけれど、とにかく不安でどうしようもない。そうすると、相手の話してることも表情も、私を拒絶しているような気になってくる。うん、これは被害妄想だ。そうはわかっていたとしても、でも、やっぱり、こんな私のことなんか嫌いになるのは当然だよねと思う。そう思っていることは、友達への侮辱だとわかっていても、思わずにはいられないのだった。歪んでいる。止められない。まったくもってストッパーがない。

私はどっちかっていうと喋るタイプだと思う。思いついたことをぽんぽん言ってしまう。
だからか、私の友達は聞き役の子が多い。
私はあんまり聞くのが上手じゃないからちょっと恥ずかしい。
独りよがりいというか、まあ、自分のことが好きなのだ。好きな友人と一緒にいるとそれが余計に顕著になってしまう。でも、聞くのが上手なのでうっかりしゃべり続けている。なんということだろう。はたと冷静になったりして、では相手が話したいこともあるだろうから聞かないと、と思う、のだけど、しかし、それはあんまりうまくいかない。相手が話下手だし、私が聞き下手だからだ。そういうバランスもきっとある。
友達は「にゃくちゃんみたいにいっぱいしゃべってくれる子好きなんだよね」って言ってくれるけど、卑屈な私はそういう言葉をよく疑っている。それに、私はとっても小さなことがぐじぐじ気になるタイプなので、話を聞いてる側からしてみるとどうなんだろうと思ってしまって、もう猜疑心でいっぱいだ。
自分の言葉で埋まってしまう車内や、別にどうってことない沈黙が、気になる。心がざわついてしょうがなくなる。好きな友達といればいるほど、そう思ってしまう。相手が何にも思っていないこともわかっていて、でも、不安になる。いっそこの不安に名前を付けてなんだか飾っておきたいぐらいに、見事に不安になる。自分の情緒不安定具合もここまでくると傑作だ。

なんだか、友達になにを求めているんだろうという気すらしてくる。私の言葉を隅々まで拾ってほしいとか、そんなことだろうか。
自分で自分のことがよくわからないのだった。
自分がもし、私の友達でも、私は自分を満たしてやれる自信がない。
私はいつも、何かを乞うている。なんだかよくわからない、何か。自分でもよくわからないその何かが人から与えられるかなんて思えない。でも、何かを求めようとしてしまう。いつも笑顔でいてほしい。私の話で笑ってほしい。共感してほしい。でも、100%なんて無理だ。無理だ、と、思っていること、とか、相手のことを猜疑の目で見ていること、が、知られたくなくて、私は好きな友人といると不安になるのかもしれない。なんだかよくわからなくなってきた。

どんなに仲が良くても、相手が大して何も考えてないとわかっていても「ごめんね」とか「よかった?」とか言ってしまう。まあご機嫌伺いのようなもんだ。媚を売ってるわけじゃない。
友達への信頼よりも、自分の心の不安に負けてしまう。今も、こんなことを書きながら、今日の友人の一瞬の真顔を思い出して心が不安になってきた。しばらく話せそうもない。なんでだろうか。不安だ。不安でいっぱいだ。
この不安はどういう類のものなのだろう。不安だ。

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2014/10/27  バランス
昨日、職場の先輩の結婚式で出席してきた。とってもかわいかった。
式場が少し手狭だったけど、それでもこぢんまりしていてあたたかなお式で素敵だったと思う。
でも、その日の朝に、訃報の連絡を受けた。昨日は大安で今日は仏滅。なんだか図ったようなタイミングだったと思う。不思議な感じだった。結婚式とお通夜が隣り合わせにある。でも、それがほんとうのことなのだとも思う。

私の知っている歴史上の人物で誕生日が6月28日、命日が6月29日の学者がいる。
知ったはなのころは「一日で成長して、そんなにたくさんの業績を残したのか。すげえな」と思ってた。結構マジで。でも、大人になって、人の時間はみな等しく24時間で(江戸時代が太陽暦だったとしても)、成長の度合もほぼ同じであることを知ったので、年代が違うということをちゃんと理解しました。そういう、あほな子でした。

とても、むしゃくしゃしてイライラして、どうにもならなくて、できるかぎりの悪口を言う。
悪口の神様というのがいて、その神様が許す悪口は、誰にも怒られない。笑ってもらえる悪口だ。でも、悪口の神様が許さない、見向きもしない悪口は、ただただばかげていて醜くて、くだらない。でも、そういう言葉ばっかり言ってしまう。情けないことに。
嫌な言葉を吐きだすとわかっていても、どうしても止まらない。どうしても言いたい。誰かに聞いてほしい。でも、嫌な言葉だから聞かせたくないし聞きたい言葉でもないだろう。でも、言いたい。
もともと、私の書く言葉なんていうのは誰かを呪うための誰かを憎んだときのための言葉なのかもしれない。そうじゃなければこんなにも誰かに言いたくなることなんかない。誰かを傷つけたかったりとにもかくにも悪者にしたいときにしか饒舌にならない。嫌味を言うとき。皮肉を言うとき。私の言葉は鋭利で鋭敏なカタマリになる。誰かを傷つけようと躍起になる。誰かを貶めようと必死になる。
でもね、同時に良い言葉も聞きたい。そんな、嫌な言葉なんかかき消してくれる美しい言葉。無条件で、泣いてしまえるようなそんな言葉。ささやかな水の流れのような言葉。私にはない、言葉。
そりゃあ自分が情けない。そりゃあ、自分が、どうしようもない。
いっそ、言葉を全部吐きだし終えたらしぼんで死ぬような制度があればいいのに。でも、きっと、私は死なない。恨みを全部吐きだすなんてありえないから。心の底にぬるぬるとずっと滞ったままでいるから。素敵な、憎しみたち。それがなければきっと私は生きていけないのに、私はそれを毛嫌いしている。それを、本当は愛しているのに、いっそなくなってしまえばいいと思っている。
ここにあってくれるな。
ここに、いてくれるな。
何も、してくれるな。

こういう波ってなんでくるのか本当に意味不明で、原因としては言葉の浪費と、言葉の便秘と、なんかいろいろその他もろもろ、感受性が鈍っている癖にたまる感情だけがある、っていう感じなんだけど、うまくいかないなあ。こんだけぐだぐだ書いていても全然満足できない。なんだよ。
あとね、やっぱり書く書かないの話とか、そういうのが地味に心にくるなあって思う。すごいぶっ壊れる。人の書く書かないの話なんかどうでもいいのに、そういうの認められなくてどんどんぶすぶすくすぶっていく感じ。心もブスになっていく感じ。全部否定したい。
どうでもいい、本当にどうでもいい私だけの信仰だけど、書ける書けないとか、書く書けたとかの話をしている人は小説がおもしろくないというジンクス、信仰があって(なぜかというとすごく独善的で自分で自分の小説を愛しすぎている)、でもまあナルシストの方が身なりに気を遣っていて清潔感があるというパターンもあるので(あくまでそういう場合もあるという話であって)、それがすべてじゃないこともわかっているしそりゃあ書かない人よりもちょこちょこ書いている人の方がそれなりに上手く書けるわけだし、そういう風に鼻にかけるというか自信を持つことが悪いわけじゃないし、私も現に自分はそれなりに上手く小説書いてるとは思うけど、でも、やっぱりそうじゃないんだよね。
本当の、私が愛する本当の人たちは、そういうところが一切なくて小説を書いていることや書く書かない、書けた書くをおごったり高ぶったりしない。そういう人はとても優しくてよい言葉を書く。控えめで優しくて美しいことば。
たぶん、書く書かないとかいってちょっとこなれた人を演出してくる人っていうのは、やっぱり自分のことを知らない人だと思う。私も含め、勘違い野郎だと思う(ここからお前の小説落ち着いて読んでみろよつまんないから、という自己卑下が盛大に始まる)。
黙ってろよ、ってやっぱり思う。小説の言い訳なんかすんなよ、って思う。
書きたいことがあるなら書けばいいし、言いたいことがあるならやっぱりそれもかけよって思うし、それは、自分もだ。
なんでも簡単に言葉にしてしまうのは楽だけど、小説を書きたいのなら小説で書いた方がいいでしょう、だって、そうして、小説を書いてきたのではないの、と、自分に自問自答だ。難しくない答えがすぐに出る。いつも、結局、正解のときも間違いのときもあるけど、でも、やっぱり出る答えは一つだけなんだ。

特に理由はなくて、ただ、書きたいと思ってるだけなんだ。

大体こういうことを考えているので、やっぱり日常生活というか私の人となりにもこういう思考回路は現れていて、よくやらかすことが多い。困ったもんだ。

あと作られた人が嫌いだ。まるでドラマみたいに落ちのあるように話す人も嫌だし、まるで漫画でよくあるワンシーンみたいな台詞を平然と言ってくる人とか、仕事が良くできるような話方をしてくる人。お前自分のこと何様だと思ってるんだ、と、突っ込みたくなる。それ、正気ですか?っていう人。そういう人を見ると大体死ね、と思う。なんかやばい思想の人みたい。
でも、そういう人を見ると一方でとっても面白い。どこまで本気で言ってて、どこまで演じていってるんだろう。もし本気で演じているのであればそれはもう嘘じゃない。本心で言う嘘ならそれはもう嘘じゃない。男の人とか、オタクこじらせている女性に多いと思うんだけど、どうでしょう。私も若干その気はあるのだけど。
小説を読んでいて「こんなきざな男いるかよ!気持ちわるいな」と思うんだけど、周りを見てみるとそこまでひどくなくてもプチきざ男がいる。というか大体周りの男性がそういう男に見えてきて、私はどんどん男という生き物が苦手になるし、でもやっぱり面白い。あと、女に気持ち悪いと思われている人ほどそういう傾向がある。モテると思ってるんだろうか?
まあ別に、どうでもいいし、私も何様って感じだな。

こうやってつらつら愚痴を書いていて思うのは、自分のことが嫌いなんだなあというのと、そういう自分を面白がっているんだなあということで、ちょっと、やっぱり、笑えるのだった。

さて、寝よう。

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