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どこをみているの
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2016/04/24  50日
父が触るなと言い続けていた開かずの間も主人がなければただのふすま1枚隔てた押入れである。長兄は躊躇なく和紙に手を突っ込むようにして強引にふすまを開けた。あっ、と思うが、父の怒声は飛んで来るわけがなく、そこで父の不在を実感する。長兄はきっと、私の実感など思いもよらない、というか、思いがけない、というか、思い至らないというのか、もし長兄が私の気持ちに気づいたとしても、言葉をうだうだと選んでいるからとろいんだと言うのがしっくりきたので、無遠慮に文句を言う長兄の背中と、特に言葉を発せずに押し入れを物色する次兄の背中を交互に盗み見た。中には几帳面な父らしく、押し入れの上段にも下段にも黒い硬質な木目の物入れが数段重ねてあった。丈夫そうな金庫が下段にどんと鎮座していたし、おそらく相続云々の関係で中身もそのうち御開帳するのだろうが、私たちの意識は上段の物入れのさらに上にある、黒いプラスチック製の深さのある籠に注がれた。かなり高い位置にあり、暗くもあるので特に私の位置からでは中身が何かはよく見えない。ただあんなに整理整頓に厳しかった父に似つかわしくなく、雑多なものがひとまとめにしてあるようだった。金庫よりもそういうものの方に目が行くところが兄妹そろっていて、金に固執をするものは醜いという父の教育の賜物なのか、そもそもそんなことを言える程度には裕福な家系だったからかは、自分ではわからない。
次兄は無言のまま、勝手知ったる様子で押し入れの下段の奥にある小さな脚立を取り出した。
「気をつけろよ」
長兄の言い方は兄たちに接するときの父によく似ていた。次兄も感じとったからか普段のマイペースからか、返事はしなかった。
次兄は一度もふらつくことなく黒い籠を下ろしてみせた。長兄が受け取る。安い洗濯籠のようなものだった。間に合わせで買ったのか、よくわからない、やはり父には似つかわしくない柔らかいビニル製だった。
「ポスターかな」
次兄が籠の中身を見て言う。丸めてある画用紙やスケッチブックが乱雑に入れてあった。どれもかなり年季が入っていて、古い傷んだ紙のかさついた匂いと押し入れの木の匂いなのか父の匂いなのかわからないが、得も言われぬ懐かしさが引き起こされる匂いが部屋に溶けて行った。西日が強くなってきており、籠から舞う埃が白く光る。床に置かれた籠に誰も手を伸ばさないので、呼吸を二度し、取りやすいいちにあったスケッチブックを手にとった。裏返すと油性ペンで名前が書いてある。
「ほんませいいちろう、って清兄のだ、これ」
長兄は黙って私の手元に目を落としている。家族のひいき目を差し引いても、長兄も次兄も顔立ちは整っており、それはつまり父親譲りの峻厳さだった。長兄はとみに父に似ており、子どもは異性の親に似るというのは本間家には通用しない。凛々しく険しく緩みはない。長兄の眉間のしわも、次兄の真一文字の口元も、すべて父だった。
「覚えてるか」
次兄が問う。長兄は私の手からスケッチブックを受け取り、開いた。A4サイズ横開きのスケッチブックには、いかにも子どもが描きそうな色鉛筆のいくつもの線と、無造作な顔のつくりをした人物が数ページにわたって描かれている。それぞれには母の綺麗な字で、「かぞく」「おとうさん」「おかあさん」「おとうと」が添えられている。どこまでが人でどこまでが背景なのか、線が繋がりつづけているその中にも区別があるらしかった。「いもうと」がでてこなかったのは私が生まれる前のものだからだろう。長兄は何度かページを前後して、無言で見続けている。次兄が手を伸ばし、丸めた画用紙を手に取る。がさがさと言う音とともに、嗅いだことのある少しもたついた油の匂いがふわりと漂った。明るい社会、という粗末なレタリングとともに、むっちりとしたクレヨンで塗りつぶされた子供の笑顔が現れる。下の方に画用紙とはまた別の紙が貼り付いており、名前が書いてあった。
「俺のだ」
「私覚えてる、この絵で英兄、賞とってた」
「だったっけ。これ、三真子のだろ」
次兄のポスターとともに丸めてあったのは私が描いた「家庭の日」のポスターだった。黒いサインペンで輪郭を描いているから、家族の笑顔がどこか黒く滲んで悲壮感がある。水性のペンと水彩絵の具を併用したらにじむことを、そんなことを、幼い私はわかっていなかったのだった。父は怒らなかったのだろうか。正しさと美しさを重んじていた父は、薄汚れた家族の絵を見て何も言わなかっただろうか。かたく押さえ込んだ父との思い出は、なかなか起き上がってくることがない。
籠の中には、兄妹が夏休みで描いたポスターや授業で使っていたスケッチブックや習字教室で書いた作品などが保存してあった。保存、というには少し乱雑ではあったが、子煩悩な姿を少しも見せなかった父の秘密を知ったような気分になる。心の隙間ができたようで、悲しい薄ら寒さを感じた。次兄は籠の中身それぞれを手に取り、面白げに感想を加えるので気は紛れたが、やはり見てはならないものを見てしまったようで気持ち悪く感じる。次兄はこの、大したことのない、それでも私にとっては酷く心に影を落とす父の秘密を、どう感じているのだろう。
「もしもし」
長兄が唐突に話し出した。電話片手に小脇にはスケッチブックを抱えている。西日は陰り、薄暗くなった部屋は現実だった。思い出を楽しみに来たのではない。父の四十九日が終わったから、母の命により遺産分配前に別宅にある父の書斎を片付けに来ただけなのである。
「ええ――はい、俺と英二郎と三真子の古い絵なんかがありましたけど――母さんじゃないんですか――ええ、そうですか――今日は英二郎も三真子本宅の方に泊まると言っていましたから――ええ」
長兄の硬い声はやはり父そっくりだった。次兄はいつの間にか手に取っていたものを籠に戻して、ゆったりあくびをする。私はまだ、家庭の日の、あの滲んだ家族の絵を持っている。なぜか長兄には見られたくないと思う。
「父さんがとってたみたいだな。母さんは知らないそうだ」
電話を切り、長兄は誰かに言う。自分に言われたようには思えなかった。次兄も返事はしない。私と同じ気持ちだったに違いない。しばらく沈黙が流れていく。急に脇に抱えていたスケッチブックを床に放り、長兄が廊下に出る。そしてがさがさと音をさせながら戻ってきた。次兄が持ってきていたゴミ袋である。長兄は何も言わず、床に放ったスケッチブックをまた持ち上げ、今度はゴミ袋に放った。そして、かごに入っていた習字の作品を、自分の名前のものも次兄や私のものも、機械的に放り込んでいく。中身が増えるたびに喜ぶようにゴミ袋ががさりと音を立てる。
「捨てるのか」
嘆いて出た言葉ではなかった。次兄はただ、長兄がこれらをどうするつもりなのかと問うているだけだった。感傷はない。あっという間に薄暗くなった部屋の中でも、長兄の毛羽立った心持が肌を伝わる。
「いるのか? いらんだろう、こんなもの。わかりきったことを聞くな」
答えがわかっていることを、問うてくるなと父は言った。答えがわかっているのに問うてくるのは、心が弱いからだと父は言った。長兄は私たちに問わなかった。いるのかいらないのか。本当に答えがわかっていたからか。心が強いからか。
「父さんにそっくりだな」
次兄は呆れながらも、さきほどまで見ていた自分の「明るい社会」のポスターをゴミ袋に入れる。籠の中身はあっというまにさらわれて、あとは私が持つポスターだけになった。古い画材と墨の匂いがふわふわと体にまとわりついている。
「三真子」
長兄も次兄も問うてこない。私は二人よりはそっと、ゴミ袋にポスターを入れた。感傷はない。ただ、さっきの心苦しさというか隙間ができてしまったような気持ち悪さは幾分か消えた。私たちは押し入れに空になった籠を戻し、ゴミ袋もそのままにし、本宅へと戻った。

次兄の部屋も私の部屋も今は長兄家族の部屋になっているので、私たち二人は客間に敷かれた布団に転がった。仕舞われていたからか、木の香りを吸った布団の匂いが心地よい。まだ夜は冷える春先に、まっさらなシーツの感触がこそばゆかった。
「寝たか」
次兄が問う。
「いいえ」
答える。
「三十路を過ぎて妹と並んで寝るとは思わなかった。お前、明日は」
「私だって予想してなかったよ。明日は朝一番には帰る。午後から彼の家に行くから」
「迎えにくるのか」
「うん、十時頃には」
「ふうん。俺は明日は清一郎兄と蔵の整理だ」
「男手が必要なことは大変ね。今日の書斎の掃除だって、むしろ清兄だけで済んだんじゃないかって思うよ」
暗闇に目が慣れてきて、低い天井の木目がよく見える。昔は木目がそれぞれ恐ろしい顔に見えたものだが、今はその感性もなくただの木目にしか見えない。小学校低学年までは、兄妹みな同じ部屋に寝ていたため、顔に見えて怖くなると長兄や次兄を起こして二人に挟まれて寝たものだ。あの頃はまだ、私たちは同じように同じものを持っていたに違いない。
「清一郎兄は怖かったんだろう」
「何が」
「父さんが。俺も怖かったし、お前も怖かったろ」
「うん」
「でも、清一郎兄が一番怖がってたはずだ。あんな、子煩悩見せつけられると、余計に怖いと思わんか。だから、清一郎兄は聞いてこなかったろ、あれら、俺たちの描いた絵がいるかどうかなんて。俺はいらなかった。三真子もいらなかったろ。清一郎兄は、きっと、捨てたくなかったはずだ」
「でも、あんなに率先して捨てたのに」
次兄の方から衣擦れの音がし、私もそちらの方に寝返りを打つとやはり彼もこちらを見ていた。幼いころに戻ったときのように思える。風呂に入ったからだろうか、幾分か口元が緩んだ次兄は少年に見える。
「問うてこないのが強いってのは、違う。弱いから問えないことも多々ある」
「清兄は弱いってことになるね」
「あの人は弱いぞ」
次兄は興が冷めたのか急に尻すぼみになって、不意に眠ってしまったようだ。私はまた向きをかえ、木目を見つめる。やはり顔には見えない。きっと次兄も木目が顔には見えないはずだ。でも、もし長兄に尋ねたらなんというだろう。答えがわかることを聞くなと言うかもしれない。でも、その場合の答えとは。
テレビドラマのように、威厳ある父の子煩悩な一面を見たと、私たち兄妹三人ともが感傷に浸れたらよかったのだ。感慨深くスケッチブックの一ページ一ページに微笑むことができたらよかったのだ。だけども、長兄は感傷の情に耐えられなくなり、次兄と私は感傷を心地悪く感じてしまった。
クレヨンのみっちりした匂いが鼻先をかすめたように思ったが、眠りに落ちてしまったため夢だったのかもしれない。

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2015/10/25  I shall be released
近況その1
気付いたら10月も終わる。怖い。そんで一気に寒くなった。日中はあついのに。
8月の終わりから怒涛の勢いで残業ばかりしていて、やっと10月でちょっと区切りがつきそうだ。でも、区切りがついてしまったら何をしていいのかわからなくなりそうでそれもまた心配である。
後輩と話していて、決められたことしか上手くできないから困ったという結論に至った。
自分で何かをつくりだすとか、考えるとかいうことのむずかしさを感じる、社会人四年目。
四年目って微妙だな。あんまり胸を張れないし、べつに張るほどのことでもないのだろうし。仕事は中途半端だし。ちぇ。

近況その2
拙作「さよなら」と「CHILDREN」の感想を立て続けにいただいて、とても光栄に思います。人のことを「怖い」とか「おかしい」とか思う瞬間があって、それを書きたいと常々思っていたので、そういうことを面白いと思ってくださる方がいることに救われる。
人のことを好きになるのも早ければ、嫌いになるのも早い。人の嫌いなところを見つけるのが上手いのだろうと思う。これもまた、胸を張れない特技だ。でも、そういう私だからたぶん、書いているのだろうと思う。
書いたものを読んでもらって、こんな風に考えてほしいとかそんなことはないんだけど、ただちょっと嫌な気持ちになってくれたら嬉しい。そういうところ、あなたもあるでしょ、って思ってくれたら嬉しい。私のこと、性格悪いねって、ちょっと見方を変えてくれたら嬉しい。
というか、書いている私もけっこうえぐられています。基本的に私小説だから。

近況その3
誰も、結構、自分のことを正しいのだと思い込みすぎているのだと思う。もちろん私を含めて。これは近況その2にも通じるところがあるけれど、そういう人ばっかりですごいしんどいと思う。思いませんか。思うんですけどね。しかもそれ、みんな結構な頻度で無自覚なんだよ。
無自覚だから、歪んでくる。人との関係に。そんで、怖いとかおかしいとか、私は思う。
とある人と思考の分離が発生してしまって、それはきっと、少なくとも相手が自分が正しいと思いすぎているのだろうというところがあったと思う。
客観的にみて、悪さ的にいれば私が悪いのかもしれない、けども、私が完全に悪いかというとそれはやっぱり言いきれないんじゃないかと思ってて、まあそれは、私には私なりの正しさがあるからなのだけど、それ考えだしたらめんどくさくて、放棄しました。
さかのぼってみれば、私も、昔は厳格に厳密に正しさを追い求めてたのだろうと思う。今もそうなんだけど、でも、昔よりはいいと思う。ああ、でも、最近先輩にも「100%は無理だから」と言われることが多いから、つまりは、少しは緩めろってことなんだろうなって思います。

近況その4
何が書きたいのかめちゃくちゃだけど、心躍ることもあって、楽しい。

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2015/07/26  やさしいこと
「枝豆、塩はいつ振るのが好き?」
「ハルくんはどっち?」
「僕はゆでた後に振るのが好きかな。塩の甘いのがいいなと思って」
「あ、待って、俺は蒸す派。甘くなっていいよ、枝豆」
久しぶりにお互いがゆっくり休める定休日、昼間からビールを飲もうと提案したのは彼の方からだった。いつのまにか信楽さんのための箸や食器が当たり前にそこにあるようになった。少し広めのベランダに、先週彼が持ち込んだウッドテーブルとチェアを置く。つまみは僕が作ると言ったが、信楽さんは枝豆は俺がやるよ、と言ってキッチンに立った。
銀のボウルに枝から切り離した枝豆をざっと放り、塩を、これもまたざっと振る。何度も何度も揉みこむと、枝豆の緑が濃くなり、生き生きとしはじめる。普段、繊細なスイーツばかりをつくる姿を見ているからか、こうしてざっくりと枝豆を扱う姿が不思議だった。枝豆から出る水分で、信楽さんの手の甲がしっとり濡れており、少し艶っぽい。
「濡れた手って、すごくいいですよね」
「なに、ハルくん口説いてるの?」
信楽さんは不敵な笑みでこちらを見たが、目は合わせられなかった。
枝豆に塩が馴染んだら、鍋に移し少なめの水を入れて強火で茹でる。ぐつぐつと煮立ったらすぐ火を止めてあとは蒸して火を通す。枝豆特有の、香ばしいような草っぽい香りがして、すぐにでもビールが飲みたくなる。そんなことを言ったら、酒に合う料理を作るうちに我慢ができなくなってキッチンドランカーになってしまったシェフの話になり、蒸しあがるまでひと笑いした。

「うわ、やっぱ外暑いね」
前日から用意していた小アジの南蛮漬け、セロリと海老のタルタル、鶏軟骨の串焼き、そして山盛りの枝豆をテーブルに並べる。夏の日差しは屋根に遮られていたものの、湿度を含んだ重い熱は汗を一気に呼び起こす。凍らせておいたビールグラスに注いだ黄金色の飲み物は、口から喉、喉から胃へ落ちていき、僕たちを満たしてくれた。
「あー、なんちゃってビアガーデン。なかなかいいね」
「ウッドテーブルなんてよく持ってましたね。あんな荘厳な家なのに、こんな洋風なもの」
「撮影で使ったんだ。なんとなくもらってきちゃったんだけど、今日の日のためだったんだな」
「信楽さんは………よくそんな寒いこと言えますよね」
彼は一瞬きょとんとして、それからけらけら笑った。
「当たり前だろ、好きな子口説こうとしてるんだから」
「口説いてるつもりですか、それで」
「フランスじゃあ当たり前だけどな。ハルくん、慶介って呼んでよ。……まだ、ダメかな」
不意に真顔になった彼は、枝豆を手に取って一粒、二粒、と噛み砕くとビールで流し込んだ。こめかみから汗が流れている。僕の鼻の頭にも汗が浮いていた。ビールをあおる。相変わらず美味い。
「……僕に、信楽さんと一緒にいていい資格が、あるのかは」
「そんなことは、誰も決めない。ハルくんにだって決める権利はないよ。ハルくんは俺じゃない。ハルくんじゃない俺は、ハルくんと一緒にいたいと思ってる。それが、何か、ダメか?……なあ、もう、我慢出来ないんだ。俺、そんなに辛抱強いほうじゃないから」
信楽さんの真っ直ぐな瞳はいつも、真っ向から僕をつかんで離さない。いつも、彼は、僕の腕をつかんでいる。まっすぐ、見つめたまま。僕を、見てくれている。
彼は小さな声でごめん、と言い、また枝豆に手を伸ばす。僕はその手を捕まえて、指を口に含んだ。指先から信楽さんの緊張が伝わる。僕の緊張が伝わったのかもしれない。
彼の指は塩の甘い味がした。

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2015/06/08  Give me a birth
暗闇の中で手にとったペンは
あなたの骨に似た白いガラスのペンでした

祈るような言葉を
願うような言葉を
ミミズのような字を這わせるから
罫線の間にカラスの鳴き声が詰まっています

金色のトランペット
午後の殺人
深夜のブランケット
悠久の灯火

あなたの瞳の色のインクで文字を書こう
潤滑油には涙を使う
長いまつげがへその緒となり
充電してくれるでしょうコンバーターなしに

暗闇の中で歌った歌は
あなたの悲鳴に似た子守唄でした

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2015/02/14  だきとめて
クリスマスにディナーはつきものだが、バレンタインにディナーというのはあまりないのかもしれない。予約客は二組、料理はキッチンからフロアに滞りなく運ばれていく。バレンタインだからと、犬養くんは今日のデザートを大分前からガトーショコラに決めていたようで、ハート型にくりぬいた砂糖菓子なんかもつけていて楽しそうだった。加島さんと宮下さんは行ったり来たりを繰り返してはいたが、疲れた顔一つ見せない。彼女たちも、誰かにチョコレートをあげたのだろうか。ごちそうさま、というお客さんの優しい声を聞くたびにほっとする。
「お疲れ様、でした」
「うん、お疲れ。あ、これ、江野くんに」
「え、いいの」
一足先に加島さんが帰り、宮下さんも最近できた彼氏と約束があると言って戸締りを仰せつかった僕と犬養くんだったが、彼はラップにくるまれたガトーショコラをこちらに差し出す。ちゃんと、あのハート型の砂糖菓子もついていた。
「時間あったしさ、加島も宮下さんもどうせ彼氏にチョコとか渡してるんだろ、悔しいじゃん。江野くんもいないって言ってたしさ」
「ありがとう。犬養くんはお菓子が上手だからいいね」
「江野くんだってやろうと思えば作れるっしょ。でも問題はさ、やっぱりおいしいとかじゃなくって女の子からもらえないと意味ないってことなんだよね。俺、なまじ自分で作れちゃうからほんと悔しい」
「はは」
小柄な犬養くんは飛び跳ねるようにして憤慨していたが、でも、俺のチョコはうまいから、と言って最後は白い歯を見せて笑ったので僕も笑った。
この冬に買ったロングのダッフルコートは温かいがその分重い。立春もすぎたというのに昼間は雪がちらついていたし、陽が落ちて雪はやんだが空気は冷凍庫のように冷たい。肌が乾燥しやすく、ひびが入っていくように思える。家まで十分、普段なら何とも思わない距離だというのに、こういう日は三十分も歩いているような気になってくるのだった。家についたら温かいコーヒーと、犬養くんからもらったガトーショコラを食べよう。砂糖菓子は、最後に取っておこう、か、その前に携帯で写真をとっておこう。
「こんばんは」
急に声をかけられて驚くと同時に、声の主がすぐにわかる。背の高い彼の影が、僕の足元に伸びていた。ドアに凭れている。玄関灯が照らす彼の頬は、オレンジ色だった。
「ごめん、来る途中に連絡しようとは思ってたんだ、けど」
「あ、いや……寒かったでしょ。結構待ってたの?」
「十分ぐらいかな。ちょっと前までコンビニいたし」
「そう、ですか」
「うん。部屋、いい?」
「うん」
一か月ぶりの彼の姿や声に、思わずもらったガトーショコラを取り落しそうになってしまう。彼はすぐにそのお菓子に気付いた。
「バレンタイン?」
「うん、そう、これ、うちのパティシエがくれたんだ」
「犬養くん? だっけ。手でもってなくってもいいのに」
「そう、犬養くん。かばんに入れると形崩れちゃいそうだから。犬養くん、自分で作ってるのはやばいって言ってたよ」
信楽さんは噴き出しながら、部屋に上がる。

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かけませんでしたpart2

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