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2014/12/31  さようならもいえずに
さようならもいえないで2014年が終わると思っていましたが、なんとか時間ができた。
というかさようならを言うのは2014年に向けて、なんだけど(なんかちょっと意味がわからない)。

2014年を振り返る、みたいなことをしたいんだけど正直2014年、何があったかさっぱりわからなくって思い出せないことが多いのでなんか悲しいですね…うん…
あ、でも、2014年は「さよなら」を発行した年でした。初めて東京の文学フリマに出て、九月には大阪の文学フリマにも出た。ちゃんとやってるじゃん…(?)
仕事面では4月から担当替えがあって(おもに私だけだが)、違う担当ではあるけれど後輩ができて、ちょっとイライラしたりもしたけど面白い子なので今は全然イライラしないです。素直だからね。素直っていうのはすごく大切なことで、人の話を素直に聞くとか、注意を素直に謝れるとか、尊い。私は、というか、結構な人が注意を受けることをよく思わないけれど本当はすごく大切なことだし、注意はその人のことを良くしようと思って話していることだし、怒るとはまた別だので注意ができる人としても、いたいです。小中高と、規律の中での学校生活に慣れてしまうと、「注意」っていうのがとても大悪のように思えてくるし、確かに注意する先生ってめちゃ怒ってたし、だけど本当は怒ることじゃない。というか、大人になって大人を怒るって違うと思うんだけどさ…
で、なんだ、2014年。ですか。ああ、でも特に何もないな残すもの。
「さよなら」を書き上げてからというもの、というか、東京文フリに出てからというもの、何かを書くっていうことが億劫になってしまってて。
そりゃあね、誰に頼まれたわけでもないし自分が好きで書いているのでそういうこともあろう、と。だけど、小説、とか、まあ絵とかなんでも、創作ごとをしている人ってこういうのでなんか自分の存在意義とかを秤にかけたがるっていうか、語りたがるっていうか、私もご多聞に漏れず、だが。
別にそういうこともあるんだってぐらいの気持ちで、いたらいいんですよね。だって世の中には私が書くものより、ごまんと面白いもの巧みなものがあふれかえっていて、そういうものを知って私が嫌になるのも当たり前で、ちっぽけな自信だってなくなりますよそりゃあね?
今まで、自分のアイデンティティ(とか大袈裟なほどではないけれど確かにそうとしか言えないな)だったものがそうじゃなくなるっていう感覚は、ああ私には何もないなって思わざるをえないですが、でも、そういうものなんだよね。そういうものなんだ。確固たる自分なんて、どこにもないんだと思う。どこかにあるかもしれないけれど、目に見えて言葉にできるものではないのかもしれない。
自己紹介が苦手です。自分がどういう人であるかを述べることはできない。没個性のような人間だから。きっと。創作の中ではそれなりに自分の色があって自分の文字があるけれど、それはそこだけの話だ。うーん何が言いたいのかわからなくなってまいりました。いつものことですが。
というか、だからね、まあ、そんな大したことじゃないって思ってます。だってまた、書きたいときに書くことができればよいのだし。きっとかけるだろう。言葉を忘れたわけじゃあるまいし。
ただ、もしかしたらもうネット上での公開はできないかもしれないし、現在中途半端に終わっている長編なんかをちゃんと終えられたらさようならかもしれない。そんな先のことはどうでもいいですね。
なんか創作の住人達が苦手っていうのもあるし、自分がそこに馴染めないっていうのもあるし。さまざまです。悲喜こもごもです。なんでもいいわ!

でも、2014年はそういう意味で囚われていた自分が少し楽になった気もする。なんか好きにやるのが一番だから。周りを見て焦るのは当然だけど、でも、それはそれ。自分は自分の歩幅でしか歩けないから。大股は疲れるし。小股は進まないし。自分の歩幅で、行くしかないんだな。

あんまりよくわかんない感じですが、まだ当分はInUは存続しますのでよしなに。
あ、でも名前は変えようかなと思っています。今度本を作る予定があるので、そこまではこんにゃく、その後はまだ未定ですが、なんかもう少しまともな名前で…
そういうわけでおやすみなさい。じゃなかった!良いお年を!

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2014/12/23  なんやかや
なんやかやで、結局一年が過ぎていくんだなあと思います。今年もあと一週間。いつもそういうこと言ってる気がする。でも、大抵の社会人は仕事が年度区切りだろうから、3月までは一年経ったって感じしないと思うんだけどね。私は絶賛そうですが。

私は今年で25歳になったけど、来年には26歳になる。年を取る制度って本人の認識しているいないに関わらず、強制的ですね。個人的には、三十路になってようやく五年分ぐらいの「年をとったな」感が襲ってくる気がするんだけど。つまり、なんだろう、25歳になってようやく「20歳から5年も歳をとったのか」という気になる、ということでして。毎年「誕生日だよ」っていうのやめようよ。五年刻みでいいと思うんだよね。年を取ることが嫌とかいうことじゃないんだけど、毎年祝われたりすると逆に年とった感じがしないっていうか、重みがないと思いませんかね。私だけか。うん。でも、年とるだけじゃあやっぱり重みってないんだよなあ。だってほんとに歳とってるだけだし。みたいな。年を取るの場合の「とし」は歳が正解なのか。まあいい。
年を取ることは結局おいていくということのみなんだろうかなあ。二十歳が三十歳になって四十歳になって、そうやって老いていく。死に近づいていく。ことのみなのかな。わかんないんだけどさあ。重みってどの辺からでてくるんでしょうか。この「重み」ってのもずいぶん曖昧なこと言ってる自覚はあるけど。うーん。人生としての肉厚?いるか?

生きてきた人生で、やっぱり人となりが別れるって不思議なことだなと思ってて、あたりまえなんだけど、目の前の人は自分とはまた別の個体っていうことが、不思議だ。その不思議は私を魅了している。触れても中身はわからない。一緒にいても、何も得られない。不思議だ。その人の体の中にしか人生は宿っていない。

こんなこといってるうちに、また一日が終わっていきます。

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2014/12/13  体調が悪い
体調が悪い、というのは私の場合「お腹が痛い」か「気持ちが悪い」の二択。で、今日は「お腹が痛い」方の体調が悪い。お腹が痛いというよりは、まあ生理がきているので子宮が痛いって感じだけど、いつもこの生理痛というのには悩まされていて、お腹(腸)が痛いのか子宮が痛いのかよくわからなくって頭も混乱しているというのが現状です。でも、大体このぎゅうと握りつぶされて、お腹にジャブが入ってくるような痛みはきっと、生理痛なのだろうな。

なんか昔から、お腹が痛いことの方が苦手だった。気持ちが悪い、のも、大体車に酔うとなるものだったので、平生の「体調が悪い」というのはお腹が痛いということで、下痢というのがすごく苦手だった。なんか、本当にこの世の終末だとさえ思いもするほど、絶望だった。まあ、ピークをすぎればもちろんよくなるものだし、気持ち悪い方が大人になった今だと怖いな、と思うんだけど、でも、お腹が痛いってやっぱり神様に祈りたくなる。私、そんなに悪いことしましたか、って。
先日、お腹が痛くなってトイレにいたのだけどあまりの痛さに気持ち悪くなって嘔吐してびっくりした。痛すぎて気持ち悪くなることはあっても、嘔吐したのは初めてだったので。死ぬかと思った。二十五にもなって、なんかそれも、情けなかったしどうしようもなかった。
大人になって、私は生理不順がひどく、生理がくるとセットで生理痛がある。軽い人もいれば重い人もいて、それは本当に体質だと思うのだけど、私はひどい方なのかなあと思う。生理がきた二日目が酷い人が多いみたいだけど、私は一日目がめちゃくちゃだ。ずっと子宮が収縮するのがわかって、そのたびに全身が細かく粟粒立つ。そうして冷や汗が出てくるし、前かがみになるものの、そうすると今度は腰が痛い。そう、腰も痛いんですよ。いや、腰の場合は痛いっていうよりも、もやもやするっていう方が正しいような気もするけど、とにもかくにもどういう体勢でも痛い。そして眠い。仕事が手につかねえと思うほどで、よく先輩に顔色悪すぎるよ、と言われる。で、この痛みは子宮なのか?腸なのか?と迷いつつも、でもやっぱり子宮だよなあ、なんて思ってまた汗を流す。
私の友人なんかはとてもひどい生理痛の持ち主で、生理がくるともう動けないという。猛烈にいたくてだるくてベッドから動けないのだそう。そりゃひどい。ピルなんかを飲むと和らぐらしいのだけど、私も勧められるが、薬でどうこうするっていうのがなんか抵抗があっていつも手を伸ばせないでいる。でも、今日はひどいので、ちょっと昼寝をしてよくならなかったら薬を飲もうかな。今日は夕方から仕事がある。ああ、面倒。

そう、それとこのブログ、もうずっと書き続けてて(前使っていたfc2ブログも合わせて)、なんか勿体ないので本にしようかと思っています。別に誰かに読んでもらうためでなく、保存用で自分で楽しみたいだけなんだけど、読みたい人いたら数冊作ろうかなとかいう疾しい気持ちを持っている。けれど、まあやっぱりこういう心境読んで楽しい人っているの?って感じなので、作らないかも。自分用だけだな笑。

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2014/12/11  発すること
自分の言葉って、当たり前だけど一度出て行ってしまったら取り返しがつかないものだなと思う。そうだね。いつも、そういう当たり前のことを、忘れてしまうんだよね。

自分が発する言葉には注意をしなければいけないんだと、注意を怠った次の瞬間に気付く。大体、人の発している言葉は意味のあるものとないもの、に大別されて、意味のないものが大半でその中にあるものがうすく隠れていたりする。仕事の中の会話ってそういうもんだなと思ってて、上手く説明ができないのがとても致命的だけど、すべての言葉に真面目に向き合うと壊れるよ、って、誰かに言われた。意味のあるものを、探し当てる。意味があるのだと、気付く。あとはあんまり、気にしなくてもいい。叱られたときは、大体そういうことだと思うようにすると、落ち込まない。と、思う。でも、それは自分の体調とか精神衛生も大分関係してくるので、全部が全部意味のない言葉のくせに、全部私をえぐっていくこともあって、わかってるけどわかってないので、真に受けてしまう。というか。なんか、そんなこともあるよな、って、話で。

友達に愚痴愚痴というと、でも、その子は丁寧に聞いてくれて、丁寧に聞いてくれているけど、自分はなんかそうじゃないって、自分の言葉に首を振っていたりしてなんだかよくわからないことになってくる。なんだよそれ、って、自分で自分の言葉に打たれて死にたくなっている。おかしな話だ。なんか、だから、言葉って不用意で、なんだか心もとなくて、どろどろの心臓のようだと思った。真っ赤に溶けていくんです。気持ち悪いほど。言葉なのに。愚痴を言ってすっきりするつもりなのに、どうしたってすっきりしないんだ。そういうときは。なのに、聞いてほしいと思ってしまう。友達は、自分の写し鏡ではないのにね。

人と話していて感じるズレは、この仕事だからだろうか。仕事をやめて本当に自分がしたいと思うことができたときに、それは解消されるのだろうか。ズレっていうのは、人と自分がぴったり一致しないかぎり出てくるもので、それは当然のことなのに最近は、そのズレに過敏になっているのだろう。でも、ズレ、の話をしても、全然伝わらない。説明が下手だし、口から飛び出した心臓は溶けるばかりで、相手の口へは届かない。テーブルの上にだらしなく溶けて血を垂れ流しているだけだった。くだらない。私の言葉。

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2014/12/10  小説の話
と銘打ちましたがそんな別に考えていることはないので書けないんだけど。なんとなくね。

人様のものを読んでいたら、やっぱり自分でも書きたいな~って気は起ってくるもので不思議です。張り合おうとかそういうのじゃなくって、いいものに触れると自分も感化されるのかな。やっぱり読書もそれなりに大事ですね。うん。大事。

これは、もっとちゃんと固まってからと思っていたんですが、今は二つぐらい本の構想があって、一つはとある方になんとなくの原案を考えてもらって(といってほとんど私が書きたいものを書かせてもらっている)、それを書いています。三話ぐらいのオムニバスみたいな感じ。
もう一つは完全に私個人の、今までと同じような感じの四話ぐらいの短編集。これもオムニバスにしたくて、この話に出てくるこの人はここにちょっと出てくる、とかやりたいな~と思ってます。
で、まあ個人で作りたいなあっていう話のちょっとした整理もあってなんとなくここにつらつら。

タイトルはまだ考えてないんだけど、料理番組好きなのでそういうの入れていきたいです。つーかご飯食べるとこを入れたいなーと思ってて、最近お腹の調子よくないからご飯がおいしいと思えないので難しいんだけど(笑)、でもやりたい。レシピとかはつけませんけど。あとがきにつけようかなと思っている。つけれたら。たぶんほぼつけない(なんなのか)。
ああ、でも、このぐらいしか書きようがない。あんまりできてないものの話をするとモチベーションが下がるし、ほんとに特に書くことないや。語ることないですね。うん。

小説を書くときに、そういう表現が使いたいのか、そういうシーンが書きたいのかっていう二パターンがあると思うんだけど、どうかな。もちろん「書きたいこと」というのが根本にはあって、でも、どっちがより色濃く出るのか、という話で。私はたぶん表現6のシーン4。かもしれないし、でも、やっぱり物によるよね。
物語なんて、きっと何番煎じでしかなくて、でも、この表現が何通り、シーンが何通り、って考えて行けばやっぱり同じものなんて一つも存在しないんだろうって思うので、書く意味とか価値とか考えないで、どんどん書いて行けばいいんだよって話ですわ。
お風呂はいって寝ます。なんかほんと、しょうもない日記でした。

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