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2014/08/27  おとなになる
中学生と高校生の違いがよくわからなくなってきた。
学力や体型や思考回路、自分も通過してきた道なのに、すっかりわからなくなってしまった。
二十五もすぎたので、世間一般からしてみれば立派なおとなだと思うが、おとなになると、中学生と高校生の違いなんかどうでもよくなってしまう。
母は、私のことをまだ中学生と思っている節があって、なぜかと思っていたけれど、そういうことかもしれない。
今、中学生の話を書いていたんだけど、高校生の方がいいんじゃないかと思ってみたり、でも、中学生もこのぐらいのことはするのかなと思ってみたり、自分の学生時代がとんと遠くにあって、まったく、シルエットぐらいしか思い出せないからまたこまってしまう。
おとなになったというよりは、忘れてしまったのだな。悲しいことよ。こうしてまた一つ、戻れないことに気づく。

素敵な言葉を使う人はめちゃくちゃ素敵な人だ。
素敵、という定義には、個々人の感情が伴うので、正確には定義とは言えないかもしれないけど、しかし素敵だ。
私の素敵の基準は簡単な言葉で清廉潔白ということだったりする。
自分もそれを目指したいし、文学はそうであるべきだと勝手に思い込んでいる節がある。
だから、装飾過多な文章も嫌いだし、自分の温度だけが上がっている浮ついた話も嫌いだ。
ただ、身から溢れる美しい言葉が聞きたいと常常思っているので、そういう言葉に触れた時に思わず泣いてしまいそうになる。
文学はどこにでも潜んでいる。だからこそ、いつも美しい言葉を使いたい。
めちゃくちゃ素敵な人の文章を読むとすごくいとおしくなる。
簡単な言葉なのに容易ではない使い方をして、それがぴたりと当てはまっている。言葉が馴染んでいる。
その人の言葉で綴られた、どんな感情も、最後には幸せで終わるに違いない。

清廉潔白でありたい。

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2014/08/24  妄想だけで生きていく
なんか人の日記やツイートを読むのは好きな割に、フェイスブックの日常の投稿を見るのはとても苦手だ。
日記やツイッターのつぶやきは、自分で好きなものだけを選んで読むことができるけれど、フェイスブックはそれができない。取捨選択ができないのでそれが結構ストレスになる。
ほとんど見ないのだけれど、たまーに見て、中学の友達はほとんどギャルで子持ちが多く、高校の友達はバックパッカーのようなノリの人が多く、にぎやかだ。真面目だし、みんな良いところに就職している。
大学の友達は世界に羽ばたいている人が多いわりに、あまりフェイスブックには現れないのがとても象徴的だなと思う。ギャルの投稿は面白いので好きだけど、高校の友達のノリはちょっと、自分的には痛く感じるので、見つけると(というか画面の大半がその人たちなのだけど)、「おおお」とびっくりする。戦く。でも、やっぱり、人の日常を盗み見るのが好きなのだが見るが、しかし、やはり悪寒がして閉じる。
日記やツイートは、その人のありのままの日常という感じがするので、人の生活感がして好きなのだが、フェイスブックはその投稿のために生活しているというか、フェイスブックに投稿するために上質な生活をしようとしている感じがしてしまう(というか、私がそう思っているだけであって、そういう人は上質な生活をしているから、自然と投稿も上質なものになるのだろうと思う)。
ここでいう上質というのは、食べているもの、着ているもの、行く場所、感じることどもが、本人たちの想うハイクオリティに達している、ということであって、客観的なものではないですが。
本人たちはそれが自分たちの人生に登場しうる、その時その時のハイクオリティなものであるという理解なんですよね。きっとね。
しかし、うん、なんだろうな、前向きな勘違いができる人はそれで良いし、それを責めることもないのだけれど、私は、そういう上質、に、自分が絶対に達することができないと思っているので、フェイスブックに何か投稿するときは緊張する。
この投稿が上質であるかどうか、は、私がそう思っていれば、私の人生が常に充実していれば上質であるのだろうが、しかし、そうではないと思っている、ので、まあ、渇望しているわけでもないし、そこそこ、なので、緊張するのだった。
フェイスブックの投稿の上質さは自分のみの判断基準のはずだけど、しかし、やっぱり、ある程度の基準はある。共通事項のようなもの。で。私の中では、でも、その共通事項を満たさないものが上質なので、結局、フェイスブックの投稿はちょっと背伸びしちゃうのだった。

さて、何を言っているのかよくわかんなくなってきた。
上質ってなんだって話ですわ。

ちなみに、無料配布本、今作っています。
「ビオトープ」か「さよなら」をお買い上げの方には無料で、それ以外の方へは100円で頒布する予定です。また。通販で買っていただいた方にも無料でお送りしますので、もし気になれば声をかけてもらえばと思います。

寝よう。

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2014/08/23  伸びすぎた爪でひっかく粘膜
毎日日記をつけようと思っていたのに、この一週間は午前様が続いていて、ろくにテレビも見ていない!
といって、普段からテレビを見ているというわけではありません。なので寝に帰ってるだけ、だけど、それも結局普段からそうなので、仕事をちゃんとしている時間が長いのであって、普段の生活となんら変わってないという事実。そうか…変わってないのか…

仕事が大変、という事実、が、あんまり受け入れられないと言うか、仕事が大変といったときの、大変って、なんかどういう定義なんだろうと思う。
仕事が忙しい、というのも、なんか違う、というか、今私がやっているのは単純作業を延々と、終わるまでやっているだけなので、なんかそれって仕事が大変とかじゃなくて、作業が多いだけで、忙しいのとも違うよな、と、思うんです。よね。
難しいことをうんうん悩むより、作業を根気よく続けることが大変っていうか、あ、じゃあやっぱり大変なのかな。わかんないけど。

だめだ、久しぶりに自由に長文を打てる時間ができたけど、そういう指になっていない。

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2014/08/17  静謐のなれの果て
今日は一日予定もなかったので、図書館で本を読んでいた。のだけれど、二時過ぎた頃に高校生たちがばばばーっとやってきて私の座る席の周りに座り、ひそひそ話し出したり寝たりしたので興ざめだったので帰ってきた。汗臭かった。

中々長丁場でしたが、文学フリマで購入した「春を待つ青い花」という文庫本と、幻冬舎文庫の「女がそれを食べるとき」を読了しました。
以下、感想です。

◆「春を待つ青い花―帰ってきた青い花3」文芸集団 青い花Old Girls著
https://c.bunfree.net/p/bunfree18/1410(文学フリマwebカタログより)/文庫判(A6)/200円
まず、何がすごいって装丁です。まんま、本当に、売り物みたいな(いや売り物なんだけど)装丁で、中身のフォントもとっても素敵です。大学時代の文芸サークルのOGさん方で作ったそうですが、とても素敵な装丁で、本当に、どこに持ち歩いても恥ずかしくない代物だなあと思います。
もちろん市販のブックカバーもぴったりです。紙質も素敵で、表紙は消しゴムハンコのイラスト?だそうです。
小説の内容は純文学で、短編集です。一話の長さは少し物足りないような、ちょうどいいような短さで、しかし、どれもすごく完成度が高い。読みやすく、難しくなく、すっと入ってきます。すごいな~と、どのお話を読んでいても感心しました。
個人的に好きだったのは芳野笙子さんの「かだりまのはなし」でした。
ちょっと不気味なんですが、民俗学的な怖さと温かさと寂しさが、雪国を舞台に丁寧にしんしんと描かれておりました。難しくない言葉で、普通ではないことを描く。素敵です。短いのに読みごたえがあってよかったです。
ただ、難点を言うと、短い、ということ。これは長所でもありますが短所でもあるのかな、と思いました。もう少し、話を膨らませてもいいのでは、と思ったり、ここで終わらせるほどはまだ話がまとまっていない、もしくは、収集がつかない状態ではない、と、なんとなく。
でも本当に素敵です。
青い花文庫はあと二冊購入しましたので(複数冊買うとお得な値段になったから!)、まだ楽しみがあります。

◆「女がそれを食べるとき」楊逸選・日本ペンクラブ編/幻冬舎文庫/648円
「あの人を思うと食べることを忘れる。彼が欲しい気持ちと同じくらい、食欲が止まらない。好きな人と共にする食事は、身体を重ねることに似ている――恋愛と食べることの間には、様々な関係がある。女性作家の描いた"食と恋"を巡る傑作小説を、芥川賞作家・楊逸が選出。甘美なため息がこぼれるほど美味なる9篇を味わえる、贅沢なアンソロジー」(amazonより)
著者は井上荒野、江國香織、岡本かの子、小池真理子、幸田文、河野多恵子、田辺聖子、山田詠美、よしもとばなな、の9名。
当たり前なんですが、女流作家のお話とはいえ全部雰囲気が違って話も全然違う。それが、かえって、新鮮でした、なぜだろう。
でも、私が書く話も、他の人と、いい意味でも悪い意味でも区別されていたら嬉しいなあとかはちょっと思います。で、まあ、それはいいとして。
「食べる」ということがテーマのアンソロジー。私は料理番組がとても好きなので、興味があって買ってみたものの、全然手を付けられなくて一か月ぐらいかかりながら読み終わりました。時間かかりすぎだぜ、俺。
ただ、色んなシーンが切り取れるものなんだなと思いました。食べる、がテーマでも。幸福の象徴だったり、不徳の象徴だったり、支配の象徴だったり。
難解だけど面白かったのは河野多恵子の「骨の肉」。男に支配される女の話、だと、私は思ったのだけれど、何度読みかえしてもまったくもって情景が想像できない!すごい。頭がすっかんぴんだからでしょうか。
ただ、男女が生牡蠣を食べるシーンがあって、男は身を食べるのに、女は男の食べ残しの貝柱を食べることに興奮している。餌付けのような、セックスのような、貝柱を食べてるだけなのにすごくみだらでいやらしいなあ、と思いました。
あとは山田詠美の「間食」。やっぱりこの人は軽くて絶妙なタッチの筆を持っていますよね。「風味絶佳」の中の一編らしいので、今度買ってみよう。

***

久しぶりに上質な小説に触れることができました。

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2014/08/16  無駄な抵抗はよしなさい
どういうわけか、音楽を聞いていると文章が書けなくなってしまう。緊張するし、曲の方に意識がいってしまうので、何を書くのか忘れてしまうのだった。
今、この文章を書いている間も、ずいぶん気がそれて何回も打ち直している。誤字も多くなる。
でも、どういうわけか、卒論をしているときは曲を流しながら書いているのがすごくよかったなあと思う。邦楽よりも洋楽の方が、歌詞の意味がよくわからないので聞き流すのは一番よかった。でも、一番捗ったのはなぜかBLのドラマCDで、ごく小さい声で流しているのが一番集中できた。なぜかよくわからないのだけど、あと、寝つきが悪い時も、ごく小さい、聞き取れるかとれないかの音量で流しておくとすぐに眠れた。不思議だ。
そういえば、先日ツイッターだったかで、寝つきが悪いときは時計の音に集中する、というのがあった。逆効果じゃないのか、と思ったけれど、一つのことにぐっと集中すると眠れるようになるらしい。耳障りだな、とか、思わないで、ただ時計の音に集中する。なるほど。
そこに感情はなく、ただ、何か、物事に集中すると、ふっと眠れるのだそうだよ。だから、ドラマCDも、もちろん声優さんが良い声なのであんまり真剣に聞いているとはわわ、と思うのだけど、ただ、ドラマの内容を追っていると一つのことに集中しているわけなので、眠れるのだろうなあと思った。

で、BGMの話だけど、なので、小説を書いているときも殆ど聞くことがない。聞いているとそっちに持っていかれるので話が支離滅裂になる。たぶん、読んでいて「?」となる場面は結構音楽を聞いているときだなと自分で思う。
あと、曲を聞きながら「あ、この曲でこういう話書きたいな」と思うときが結構あって、インスピレーションというよりも、歌詞を聞いて話が思い浮かぶことがあって、いざその曲を書こうとなった場合に、その曲をリピートしていても全然書けないときがたくさんある。不思議だ。曲という、表現されたものをさらに表現するっていうのがダメなのか。
なので、よくこの曲いいな~小説にしたいな~と思っても、書けないことが多い。
まあ、著作権的にアウトなのかセーフなのかよくわからないのだけれど。
今ずっと思っているのは、NICO touches the wallsの「N極とN極」と「プレイヤ」という曲があって、その曲で何か書きたいと思うのだけれど、全然書けない。一時期NICOがすごく好きで、というのも彼らの曲によって与えられるインスピレーションが大きくって、素敵だなと思っていたのですが、しかし、書けない。
ちなみに「N極とN極」は「追いかけても二人の距離は変わらないためお別れすることにしました」というところが好きです。お互い好きなのに、似ているからこそ合わない二人のお話を書きたいなあ、と思っている。
「プレイヤ」の方はすごく不思議な歌なんだけど歌いだしの「月を数えた帰り道 足りない指に気付く」っていうのがめちゃくちゃ好きです。何の気なしの怖さみたいなものが素敵だと思う。

文庫のカバー下にあとがきを乗せているのですが、そこで載せているBGMは勝手な私のイメージソングです。それを聞きながら書いているわけじゃないんだけど、その話を思い浮かべるとそのBGMというか、そのBGMが発端になって書いてるとかそういう感じだな。
どこまで興味を持っていただけているのかはよくわかりませんが、そういうのを書くのってやっぱり楽しいよなあと思う次第です。

大阪行きの新幹線を買おうと思っているのだけど中々面倒くさくてしてないや。

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