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2014/08/24 妄想だけで生きていく
なんか人の日記やツイートを読むのは好きな割に、フェイスブックの日常の投稿を見るのはとても苦手だ。
日記やツイッターのつぶやきは、自分で好きなものだけを選んで読むことができるけれど、フェイスブックはそれができない。取捨選択ができないのでそれが結構ストレスになる。
ほとんど見ないのだけれど、たまーに見て、中学の友達はほとんどギャルで子持ちが多く、高校の友達はバックパッカーのようなノリの人が多く、にぎやかだ。真面目だし、みんな良いところに就職している。
大学の友達は世界に羽ばたいている人が多いわりに、あまりフェイスブックには現れないのがとても象徴的だなと思う。ギャルの投稿は面白いので好きだけど、高校の友達のノリはちょっと、自分的には痛く感じるので、見つけると(というか画面の大半がその人たちなのだけど)、「おおお」とびっくりする。戦く。でも、やっぱり、人の日常を盗み見るのが好きなのだが見るが、しかし、やはり悪寒がして閉じる。
日記やツイートは、その人のありのままの日常という感じがするので、人の生活感がして好きなのだが、フェイスブックはその投稿のために生活しているというか、フェイスブックに投稿するために上質な生活をしようとしている感じがしてしまう(というか、私がそう思っているだけであって、そういう人は上質な生活をしているから、自然と投稿も上質なものになるのだろうと思う)。
ここでいう上質というのは、食べているもの、着ているもの、行く場所、感じることどもが、本人たちの想うハイクオリティに達している、ということであって、客観的なものではないですが。
本人たちはそれが自分たちの人生に登場しうる、その時その時のハイクオリティなものであるという理解なんですよね。きっとね。
しかし、うん、なんだろうな、前向きな勘違いができる人はそれで良いし、それを責めることもないのだけれど、私は、そういう上質、に、自分が絶対に達することができないと思っているので、フェイスブックに何か投稿するときは緊張する。
この投稿が上質であるかどうか、は、私がそう思っていれば、私の人生が常に充実していれば上質であるのだろうが、しかし、そうではないと思っている、ので、まあ、渇望しているわけでもないし、そこそこ、なので、緊張するのだった。
フェイスブックの投稿の上質さは自分のみの判断基準のはずだけど、しかし、やっぱり、ある程度の基準はある。共通事項のようなもの。で。私の中では、でも、その共通事項を満たさないものが上質なので、結局、フェイスブックの投稿はちょっと背伸びしちゃうのだった。
さて、何を言っているのかよくわかんなくなってきた。
上質ってなんだって話ですわ。
ちなみに、無料配布本、今作っています。
「ビオトープ」か「さよなら」をお買い上げの方には無料で、それ以外の方へは100円で頒布する予定です。また。通販で買っていただいた方にも無料でお送りしますので、もし気になれば声をかけてもらえばと思います。
寝よう。
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