どこをみているの
2025/02/07 [PR]
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2013/12/11 take me to the sky
占い、というのは、私はよく「悪いことばかりを信じてしまう」たちなので、自分の星座が一位だったときよりも、十二位だったときをよく信じてしまいます。
でも、その日、悪いことがあっても自分のせいっていうよりも、「占いでああ言ってたから今日はそういう日なんだよ星のめぐりが悪いの」と言い聞かせるようなことにできるので、最下位というのも、見方によっては自分を守るものになるのかなという勝手な解釈なんですが。
私の好きな人が、「占いで自分の人生を決めるのは怖いけど、迷っているときにそっと背中を押してもらうぐらいには使えるんじゃないか」って言ってて、私もその考え方がとても好きだなって思って、なので、占いは結構見てしまいます。年末年始って多いじゃんね、そういうの。
たまたまなのか、友人が、今日、職場で「蟹座の君へ」という本をくれました。私、蟹座なので。
鏡リュウジさんという、占星術界(?)ではとても有名な方で、ananとかでもよく占い書いてる人なんだけど、その人のちょっと詩集のような、蟹座はこんな人で、こんな風な生き方をするんだよ、ってだけが書いてあるものなんだけども。
まあ、あたってるかな、と思うところもあれば、あたってないかな、と思うところもあって、その割合は6:4ぐらいかな。7:3かも。てことは結構あたってることになるな…
私は、自分のことが好きなので、自分のこと(性質なんか)について書いてあることがとても好きえ、そういうのにあてはめながら読むのが好きです。啓発本は嫌いなんだけど、蟹座、とか、おうし座、とか、わけてあると、自分向けに書いてあるような気がするしね、なんか受け入れやすい。
こういった類の本はもっていて、石井ゆかりさんの「蟹座」という本も持っています。
共通して書かれているのは、蟹座は自分ではない他人のことを、自分のように感じられる人、と、感情が豊か。内弁慶になりがちで、それゆえに臆病。
うーん、あたってるような、あたってないような?
蟹座、っていうのは、感情がすべての王様的なポジションにいるので、結構好き・嫌いがはっきりしている。でも、こまめなところに気が付くので、大人になってくると感情を抑圧しがち、とか。でも、好き・嫌いにまかせてみてもいい、てなことが書いてあって、忘れてたなーとおもいました。
私は、私の好きなものを好きで、いよう、と、思ったのを、忘れていた。
それと、蟹座は心の原風景に立ち返ることがある、みたいなことが書いてあって、だから、十年後の自分が思い返して恥ずかしくない生き方を選べ、て書いてあって、そんな無茶な!と思ったわけですが、今、十年前を振り返ってみたり、もっと幼いころ、自分の原風景に立ち返ったときに、なんだかひどく歪んでいるような気がするので、ほっとするような思い出ってあんまりなくって、だから、これからでも、作っていった方がいいのか?と少し左右されたり。
まあ、そんな鵜呑みにする必要がないのもわかっているので、落ち込んでいるときとかにこういう本を読んで、少し落ち着いて、背中の後押しになったらいいなっていう、そんだけなんだけど、だから、これから十年後の私が、今の私を思い返したときにどう思うだろうっていう、そういうことをふと考えたり、そういうきっかけをくれるだけでも、こういう本って面白いよなって思うわけです。
で、やっぱ恥ずかしいかもとか、そんなことをふと思って、何かを始める方向に動き出すもよし、だし、現状維持だっていいわけだし、なんだってよくって、信じすぎなければ、それに左右されすぎなければいいのかなって、思ったりもして。
鏡リュウジさんにしろ、石井ゆかりさんにしろ、書き口が丁寧なので読みやすいし圧迫感もないし、強迫感もないし、すとんと落ちてくる感じがいいんですよね。
まあ、なんというか、少し無責任な感じというか、感情がないとも言うのかな。
でも、占いってそんなものだから、結局道を選ぶかどうかも私の問題なのだけどね。
明日は早起きして、職場の掃除をしないと。ここ二日、嫌で嫌で寝坊ばかりしてしまったので、明日ばかりはちゃんとやろうと思います。
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2013/12/01 あの事どうでもよくて
拍手のコメントの返信、も、とくに必要がないのだろうと思いながら、ブログでお返事しても埋もれてしまうので別ページを作ってみました。が、うちは拍手でコメントいただくことが少ないので無用の長物なのかもしれない。というか、べつに長物というほどではなさそうですが。
コメントも、拍手だけでも、本当にうれしいもんですけれど、やっぱりコメントいただくと嬉しいですな。
「マイ・カズン」を読んでいただいたようで。私は「マイ・カズン」が好きなのであれば、拙作だけど「セレンディピティー」も読んでほしいです。
あと、見切り発車ですが、来年5月の文学フリマ(東京)と、9月の文学フリマ(大阪)に出展したいなあと思います。5月に合わせて新刊を作って、「ビオトープ」の在庫もあるのでそれも携えつつ。なんか目標ないとほんとにかかなくなってしまいそうなので、どうにか踏ん張りたいところです。
タイトルは「さよなら」で、いまのところふんわりぬるぬるBLっぽいものと、母の日のお話を書きたいと思っています。が、母の日なんだけど父の話になりそうだ。
今日はひとつ嫌なことがあって、私が小説を書くことは家族も知っています。そのことは別に良いのですが、私が好きなように書いて好きなように進めるのが小説の良いところで、こんな私にでも続けられている習慣というか趣味というものなのだけども、父が、
「小説家にならんのか?いつになったらなるの?」
と問うてきて、それがもう嫌で嫌でしようがないわけです。小説は私のものであって、夢であって、希望であって、誰かに希求されるものでも縛られるものでもなくって、たぶん、そういうことをせかされることも、今全然かけない現状も相まって、そういうのじゃないんだって、なんか、そういう、なろうと思ってなるものでもなくって、だから、そんな軽々しく言ってほしくなかったというか、上手く言えないんだけど。
自分でも無理だって思っていることを、他人から伺われるってすごく最低で気持ち悪くて、というか、そういうこと言われるとどんどん遠ざかっていく気がする、という、そして、そういう騒音が一番体に良くないってこともよくわかってるから、放っておいてほしい。
これは私の夢や希望や切実な願いであって、あなたのものではないし、あなたがどうこう関与していいもんじゃないんだってことで、上手く言えないだけど、とにかく胸やけしそうなほど気持ち悪くて気分も悪くて。
彼は、応援しているわけでもなくって、なんだろう、興味本位、いや、違う、けど、応援とはまた全く違う意味でそういうことを言ってくるからほんとに嫌だし、いろんな著名な小説家の人生苦労話とかもしてきて、だからなんだって思うし、正直興味なくって、そもそも他人に興味がなくなったのは、彼のせいでもあるんだけど、つまりどうでもよくって、だけどなんか妙に心がえぐられていくなとは思っていて。
本当に小説を書いていきたいと思うなら、この家を出ないと無理だとも思いつつ、ここでふん切れない私はなんだか幼いのだと思います。幼い、というか、やっぱり度胸と、根本的な冷酷さを体現する勇敢な残酷さが足りない、のかも。
それなりなことを言ってればそれなりに聞こえそうなマジック。
私自身、小説や小説家を神聖化しているとこがあって、だからこそ、何もわからない人(おもに私の心情)にそうやって何かを言われることがストレスになるのだと思う。放っておいてくれ。
しかし、もう、年とってきてどんどん、今のポジションから足が抜けなくなりそうだと思う。怖いし、嫌だし、だけど、そういうものが現実で、上手くいかないことばっかりで、腐っていても仕様がないし、あんて非生産的なんだと思う、けど、こうやって生きてる人が大多数なんて知りたくもない。
強要されないで、のびのび、生きて、小説に愛された生き方をしたかった。
圧倒的に中途半端で、何の知識もなくって人生経験もなくって、なんだかへぼっちい大人だこと。
自分をとりあえず責める。何も変わらないけど。
2013/11/12 しのぶれど
どうでもいいことなんだけど、
「ラブイーチアザー」は番外編を書くつもりだったので、結局読み切りの方には動かさなかったなあというのを思い出して、自分のサイトなのに誤情報を流してしまったと少し後悔しました。
ほんとにどうでもいい。
そして、昨日上げた「しのぶれど」というお話について、一番書きたかったことがあって、それもまたどうでもよいことなんですけれども、書いておかないと気になるので書いておこう。
いつも、話を書くとタイトルのつけ方が全然わかんなくなっちゃって、よく、作文とかでその文章の要旨となる言葉をタイトルにつける、なんてのを思い出します。
今回、まあなんかよくわかないけど、みんな耐えてるな、と思って、「しのぶれど色に出でにけりわが恋は~」とかいう短歌あったなって思い出して(間違っているかも)、そんで「しのぶれど」にしようと思ったんだけども。
本当は「恋」とか「孤悲」の枕詞あるのかなって思ったんですが、なかったので(ないよねたぶん)、結局「しのぶれど」に。
「しのぶれど」って検索するとやっぱり前述の短歌がだだだって出てくるんですが、その中で、しのぶれどっていう薔薇があるのを発見。
うすい紫色の、それこそ隠している思いが滲んでくるような色の薔薇でした。
なので、パブーの表紙絵を描いているときにそれを書きたくって書いたけど、結果としてだし巻き卵みたいになっちゃって、という話。
うわ、これしなくてもよかったやつですが、なんかテンション高いので書いておきました。
自分を顧みないときって本当に顧みなくて、たとえば大きな流れに身を寄せているだけで時間もすぎていくし、自分の役割も流れていってしまう。だけど、本当にやらねばいけないことを見逃してしまう時間でもある。な、と、そんなこと思いました。
今、周りがなんだかんだと浮ついていて、私もそれに釣られて浮ついているんだけど、いや、私は浮ついていい立場じゃないよな?と、少し冷静になり、でも、やっぱり大きな流れには逆らえないので相変わらず浮つく、という謎のスパイラル。
自分の芯を持つことも大切だし、流れに任せて何も考えないで流れていくことも大切で、じゃあ、何が正しいのかなんていうのはわからなくって。その時その時の正しさがあります。
仕事が嫌で、やりたいことがあるって思っていたのに、いつのまにか嫌な仕事にも慣れてきてこれから何十年とここで働くんだなって考え始めている自分がいて、はっとする。
私、抗うんじゃなかったのかって。
いや、別に反社会組織に与するとかそういうことではなくって、自分自身の無意味な安寧と戦っていくんじゃなかったのかと思うわけですが、私が感じていた孤独や寂しさを今、忘れてしまっている、からこそ、孤独や寂しさを知る私とは戦えない。同じフィールドには立てない。
だんだん、わかんなくなっていく。感じなくなっていくんですよね。
空の青さの違いとか、冬の寒さで泣きそうになること、心の芯がぎゅうとつぶされそうになるぐらい愛しさを感じること、指先が冷たくなる感覚が好きなこと、静かな夜が好きなこと、だだっ広い国道沿いで、一人で歩いているときの気持ち、なんかそういうの、全部。
常々言っていることだけど、そういうことを感じることが、私を救ってくれていたのに、じゃあ、今の私の救いはなんだろうっていうか、そういう感受性のなくなっていく私っていうのはなんなんだろうっていうか。
そんなこともなんとなく考えたりして。
久しぶりにお話を一本書いて、ああ、全然かけないわ、と思って、なんだかもう、筆が進まないってことが、心の底から指に伝わってくるってああいう感じですね。
情景描写だけじゃ駄目なんです。淡々とした心情描写だけじゃダメなんです。
私の思う、私の感覚の、お話を書きたい。んだけど。
っていって、BLでそれをやるのは無理な話ですね。
寝ます(なんだほんとに)。
2013/11/12 寒い夜には愛を
読み切り一つあっぷしました。
それにともなって、前編後編(?)で分けてた「いつかどこかで」、と、「ラブイーチアザー」も読み切りに移動。
まあ、あの量で二話続きなら許されるよね?という意味のわからない感じ。
さて、新しく書いた「しのぶれど」ですが、リクエスト頂いてた「しっとり美人の出てくるBL」がテーマでした。
もともと、そういうしっとりしたものを書きたかったけど、まー書けない。意味わからない。
傷跡とかが好きなので、よし、顔に傷を持ってるけどすげー綺麗な男の人にしよう、と思い立ったものの、結局、話が煮詰まり、何度も何度も書き直しました。
その結果がこれかよって感じですけども。個人的にはすげー面白かった、というのも、まあ、私の中では全員の心境なんかは全部把握済みというか、細かい部分、表情とか、そういうのが頭にあるので、こんときの幸次はこう思ってんだろな、とか、秋芳郎はこうだろうな、なんてなことを想像してるわけです。
基本的に公子ちゃん目線なので、中々書けないところがヤキモキして、自分の度量がないこともよくわかりました。
ていうか、公子ちゃんに全部言わせようとすると、今でもまあまあストーカー気質なのに今以上にやばいことになってしまうのでやめました。
しっとり美人、が、結局、いまだわからないですけども、書きながら思ったのは、こんなん弁解にしかならないけど、耐え忍び、密やかな恋をしているのは美しいんじゃないかと思いました。よくわからんのだけど。
そして、それが押さえ込まれて溢れだした時に、美しいかなあと。
話の中で、幸次と秋芳郎はいろんな人を踏みにじる結果になっていても、そんなことより我慢ができないほど、相手が好き、という感情が溢れ出してしまった、みたいなことで、それが美しいかはわからないですが(結局)、誰かを思って辛い涙を流す人はやっぱり美しいと思ったのでした。
どーどーめぐり。
ちなみに(?)、本当は秋芳郎はもっとえげつないいじめを幸次から受けるという話だったけど、うまく続かなくていまの形になりました。
そんときに、本当は、「自分が常識だと生きていて、自分が正しいと思って生きている、そんな傲慢を他人にも押し付けるな」というか、「君たちには君たちの正解があるかもしれんが、君たちの正解に当てはまるのは君たちしかいない」とかいうことを、秋芳郎に言わせたかったけど、ものすごく陰険なやつになってしまうのでやめました。
でもいつか書きたいと思うので、また、顔がただれた男の子の話を書くかもしれません。
あまり大声では言えないけど、迫害する側とされる側の精神性やそのことに興味があるし、結構そこが萌のポイントだったりする。
なんだかんだ、オチがどうあれ、またひとつ形になったことがうれしいです。
リクエスト下さった戸田さん、ありがとうございました。
ながくなってしまった。
2013/11/07 Living the Sun
本当は、今書いているお話が着地したら日記を書こうと思っていたのですが、結局それもままならなさそうなので、日記を書いている今です。
先日、二、三個書きたいと思った日常の些末なことがあったのだけれど、それが今やもう全然思い出せない。やっぱり、変な意地を張っていないで素直に書けばよかったわけです。
しかも、書こうと思ったときの瞬発力が大切で、基本的に私の文章を書くときっていかに瞬発力と思いきりの良さかみたいなところがあると自分でも思っているので、そういう意味で、書く瞬間に書かねばいかんのだな、ていう話です。
ふいに、自分が今何歳で、もうそんな年なんだなって、本当に不意に、思ったりすることがあって、つまり今、この文章を書きながらそんなことを考えたんだけど、やっぱ人間、死ぬために生きてるように思えてくる。生きるために死ぬ、とか、生きたから死ぬ、とかいう風には考えられないのが不思議だけど(ていうか意味通じないねこれ)。
年取ってって、どんどん死に近づいていくけど、死に対する思いって今のままで変わらないのかな。
よく、ここから落ちたら死ぬだろうな、とか、これで首切ったら死ぬだろうな、とか、そういう瞬間的なこと考えても、結局死ぬってことは他人事でしかなくって、実感なんて一生できないしろものなんだなっていうか。
三年前に祖母が亡くなって、私にとって死は身近なものになるかと思ったけれど、それもそうでもなかった。その亡くなった祖母が私はとても好きで、なついていたので、そういう祖母がなくなってしまったとき、「死」というのはどうなんだろうって、考えるきっかけになるかな、とか、自分にとって祖母の死というのはどういう位置づけになるんだろうって、色々考えていたけど、まったく心に入ってこなくって。不思議なことに。人が死んでいるのにな。
今でも、まだ、祖母が生きているような気がして、本当に、親族で集まったときになんでお祖母ちゃんいないんだろう?って思ってしまうぐらい、祖母の死が、受け入れられないというよりも信じられないっていうか、わかってないことをわかっているような感じです。
だから、私にとって「死」って「死なないこと」と同義なのかもしれません。うーん哲学めいたこと言ってるようだけど、わかってくれる人は絶対いると思いたい。
たまたま祖母の家に行ったときに、従兄が祖母の部屋を改修して自分の部屋にしていたけど、それを見てもここは祖母の部屋ではなく違う誰かの部屋であって、祖母の部屋はまたべつのところにあるんでは、と、ずっと思っていたし、わかっていても、そういう思考になってしまう。
ここで注目すべきは、私の、祖母への愛情ではなくって、そういう考えにいたる根源、は、やっぱり死を理解してないってことなんかなーとか。
いや、別にこんなことが書きたかったわけじゃないのに、なぜ書いた…
あと数日して、HP触れなかったら変な「~か月以上更新されていないので~」っていう広告でちゃうのかな。それだけは避けたかったのだけれど、もうすぐ三か月たってしまうので怪しいところですね。
土曜日にはアップできるかなあ。
今書いてるの、BLなんだけど、全然うまく書けなくって、もう三回ぐらい書き直していて、でもやっぱりかけない。難しい。
カップル(?)を、片方の妹の視点から書きたい!と無駄に思って書き始めたけど、そういうのってすごく難しいんですよね。二人がどう思ってどうくっついたとか、そういうのわかんないから、やっぱりBLってカップルのどっちかを主体に奥か、三人称が向いてるんだろうなあ。むむむ。
でも頑張って書きます。
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