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2013/11/07 Living the Sun
本当は、今書いているお話が着地したら日記を書こうと思っていたのですが、結局それもままならなさそうなので、日記を書いている今です。
先日、二、三個書きたいと思った日常の些末なことがあったのだけれど、それが今やもう全然思い出せない。やっぱり、変な意地を張っていないで素直に書けばよかったわけです。
しかも、書こうと思ったときの瞬発力が大切で、基本的に私の文章を書くときっていかに瞬発力と思いきりの良さかみたいなところがあると自分でも思っているので、そういう意味で、書く瞬間に書かねばいかんのだな、ていう話です。
ふいに、自分が今何歳で、もうそんな年なんだなって、本当に不意に、思ったりすることがあって、つまり今、この文章を書きながらそんなことを考えたんだけど、やっぱ人間、死ぬために生きてるように思えてくる。生きるために死ぬ、とか、生きたから死ぬ、とかいう風には考えられないのが不思議だけど(ていうか意味通じないねこれ)。
年取ってって、どんどん死に近づいていくけど、死に対する思いって今のままで変わらないのかな。
よく、ここから落ちたら死ぬだろうな、とか、これで首切ったら死ぬだろうな、とか、そういう瞬間的なこと考えても、結局死ぬってことは他人事でしかなくって、実感なんて一生できないしろものなんだなっていうか。
三年前に祖母が亡くなって、私にとって死は身近なものになるかと思ったけれど、それもそうでもなかった。その亡くなった祖母が私はとても好きで、なついていたので、そういう祖母がなくなってしまったとき、「死」というのはどうなんだろうって、考えるきっかけになるかな、とか、自分にとって祖母の死というのはどういう位置づけになるんだろうって、色々考えていたけど、まったく心に入ってこなくって。不思議なことに。人が死んでいるのにな。
今でも、まだ、祖母が生きているような気がして、本当に、親族で集まったときになんでお祖母ちゃんいないんだろう?って思ってしまうぐらい、祖母の死が、受け入れられないというよりも信じられないっていうか、わかってないことをわかっているような感じです。
だから、私にとって「死」って「死なないこと」と同義なのかもしれません。うーん哲学めいたこと言ってるようだけど、わかってくれる人は絶対いると思いたい。
たまたま祖母の家に行ったときに、従兄が祖母の部屋を改修して自分の部屋にしていたけど、それを見てもここは祖母の部屋ではなく違う誰かの部屋であって、祖母の部屋はまたべつのところにあるんでは、と、ずっと思っていたし、わかっていても、そういう思考になってしまう。
ここで注目すべきは、私の、祖母への愛情ではなくって、そういう考えにいたる根源、は、やっぱり死を理解してないってことなんかなーとか。
いや、別にこんなことが書きたかったわけじゃないのに、なぜ書いた…
あと数日して、HP触れなかったら変な「~か月以上更新されていないので~」っていう広告でちゃうのかな。それだけは避けたかったのだけれど、もうすぐ三か月たってしまうので怪しいところですね。
土曜日にはアップできるかなあ。
今書いてるの、BLなんだけど、全然うまく書けなくって、もう三回ぐらい書き直していて、でもやっぱりかけない。難しい。
カップル(?)を、片方の妹の視点から書きたい!と無駄に思って書き始めたけど、そういうのってすごく難しいんですよね。二人がどう思ってどうくっついたとか、そういうのわかんないから、やっぱりBLってカップルのどっちかを主体に奥か、三人称が向いてるんだろうなあ。むむむ。
でも頑張って書きます。
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