どこをみているの
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2013/11/01 誤字脱字乱筆乱文訂正不可避
ひかるちゃんは、たまに人のことを人と思わないで扱っているような時がある。
彼女自身に自覚があるのかよくわからないけれど、たまに、私に何かをお願いするとき、話を聞いて欲しくてたまらないとき、彼女は私を、自分の都合の良いように動く、人間ではない何かとして扱っているように私は感じてしまう。
言葉が投げやりにうっちゃられたり、言葉そのものの選び方だったり、声の調子だったり、そういうもろもろのことが、ひかるちゃんをわからなくさせる。
ひかるちゃんは、気のつくとても良い子だ。芯もしっかりしているし、信頼のおける、友達、だけれども、好きかというとすぐには頷けない。
理由を考えると、やっぱり、ひかるちゃんが、私や他の人にする、モノを扱うような振舞いが該当するのだと思う。いや、モノとまではいかないのだけれど、私が生きている人形のような、そういう扱いをしてくる。
私に意思があることも理解しているうえで、それでも、ぜったいに言うことを聞くだろうという前提で、私のことを扱っているのではないか、と、穿った見方をしてしまうときがあるのだ。
ひかるちゃんは、よく、お願いをしてくる。それは些細なことで、友達の言うことだし受け容れることに基本的には戸惑いも嫌悪もない。
だけれど
****
途中まで書いて力尽きる。
ここ数日の自分の戸惑いや感情の浮き沈みに左右されすぎて、自分が一番疲れました…なんじゃそりゃ…
しかし、人間本当に勝手だなと思うわけです。
色んなところでずるくて、賢くて、とにかく嫌な面ばっかり出してくるんだなっていうか。
でも、それでも、愛おしいと思える部分もあるのもまた事実で。
ずるいのに、卑怯なのに、なんで愛らしいんだろう。よくわかりません。
以前、友人に「にゃくは猫みたいだね。機嫌の良いときはすりすり近寄ってくるけど、自分が触れられたくないときは逃げていく」と言われたことがあって、そうかなーとおもっていたけど最近、改めて思ったのは私は馬鹿犬だなということで。
好きな人には全速力で走り寄っていくんだけど、「うるせいこの馬鹿犬!」と言われるとくぅーんと悲しく逃げていく、けど、「おいでおいでー」って言われたらまた嬉しくって全速力でかけていく。
でも、根幹ではもちろん人間ですので、そんなことが何回も繰り返されるとあほらしくって、馬鹿犬は馬鹿人間成長して、意味わからないところでプライド出してきて、最終的にまあ結果としてかわいがってくれた人にもかみつくという謎の所業を行う。
結果、馬鹿犬なんです。そういう感じなんだなー
これも結構楽しいんだけど。
まあ、これも特定の人だけに対して馬鹿犬で、また別の人に対してはちゃんと人間として接したり(?)、猫みたいに接したり。
となると、結局気まぐれってことだから、根本な猫なのかな?わからんし、これわかったところでって感じですね。なんだこれ…
久しぶりに文章書くとこんな感じになるんだ、ほんと怖い。怖い!
全然進みません。ああん。いやだ。
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2013/10/19 あの日のまちで
服を捨てるのが好きだなって思いました。
今日、衣替えをしてて、抽斗の夏服も冬服も、いわゆる「ときめかないもの」をぽいぽい。
一回しか着てなくても、まだまだ着れるものでも、ぽいぽいぽい。
そうしていくのがとても快感だということに気付いてしまった。
たぶん、人生においてなかなか決断ができない私なので、そういう簡易なのにお金を無駄にしているという背徳感と決断が私にもできる、という感じが快感なのだということです。
で、たまに「あれ、あの服捨てたっけ?」と思って、また同じようなものを買ってくる。それに落ち着く。でもきっと、また、季節が変わるころにはぽいぽい捨てている。
それってすごく、私の性格を端的に表しているような気がして面白いとも思いました。自分の、人間関係における考え方の縮図みたいだった。
あと、とても好きな小説のサイトがあって、というのも、私がこんなに継続的に一つの小説のサイトを訪れていること自体がすごく珍しいと我ながら思うのですが、本当に大好きで、今日もまた一つお話を読んできたのですがめちゃくちゃ好きでした。
なんで?なんでここでこんな言葉思いつくの?なんでこんな表現が出てくるの?という。
オチもなく意味もなく、ただただ気色の悪い話なのですが、それが絶妙すぎてめちゃくちゃ好きです。
自分でも最近自覚してきたけど、ちょっと歪んでるものが好きで、つまり日常の中に見え隠れする非日常みたいなものなんだけども、それがドンぴしゃなんですね。
好きなものを囲いたい私なので、たぶんリンクを貼るつもりはそうそうないんだけども、しかし本当に素敵で、大好きです。
負けだ!ってなんか無条件で思ってしまう。
私も、話が云々とかよりも、ただただその人の心の真ん中にびたーっとくるお話が作りたいと思いました。
余談だけど、春か夏ごろにまた、一冊作りたいと思います。
また短編集になると思いますが、前回より話の数は減らすことを考えています。紙ももう少し薄いのでもいいかなと思って(前回のは厚くって、文庫サイズっていうよりもハードカバー向けの紙だったなあと反省)、悩んでいるところです。
「ビオトープ」はタイトルつけるのにすごく苦労したけど、今回は簡単に「さよなら」というタイトルにしようと思います。うーん、楽しいかおりがプンプンする。
装丁が悩ましいところだけど、おいおい考えていこう。
また春に文フリあるだろうからそれに出たいかなあ。もしくはコミティアかな。でもコミティア人多すぎて怖いのでやっぱり文フリあたりにしよう…
こうやって楽しいことをひとつひとつ積み重ねていけるような人になろう。
2013/10/06 昨日の今日でまた明日
昨日のことが尾を引いていて、ちょっとげんなりしていたのもあり、今日は早朝(といっても普段の出勤時間と変わらないぐらい)からの仕事だったのでとても疲れました。
ここ数日、なんで自分はだめなんだろう、という、相も変わらない自己卑下と自意識過剰の渦にのみ込まれており、どうにもこうにも動けないところに、昨日、京都に一緒に行った先輩との会話の端々を思い出して、ストレスというか落ち込みに拍車がかかったと思う。
自分でも面白いな、と思うのは、事実を歪曲して解釈しているとしても、自分のどこがダメなのかどうしてダメなのか、が、わかっているのに、解決策もあるんだと思っているのに、結局その策を実行する気がないっていうことです。もうね、こうやって言ってる時点でダメなんだけど…
今日、ブログやフェイスブックを見てて、やっぱり努力している人は努力しているだけの結果がついてくるというか、頑張っている人はちゃんと報われるんじゃないかって思いました。そういう風にできてなかったら、やっぱり世の中おかしいよね。
で、私はもちろん頑張っていないので、報われないのですけれど、それもわかったうえで僻んじゃうからすごい立ち悪いしくそったれなわけです。
自分でクソッタレっていうから許されるとかは思ってないけど、せめてもの罰として自分に言ってるみたいなとこあるよね。ほんとどうしたいのかな。
頑張りたいことって、なんだろう。よくわかんない。でも、頑張らないと、今の自分の状況は打開できないのもわかってて。うー。
どうしたらいいのかな。わからん。
2013/10/05 空っぽの中身
今日は、職場の先輩と世界遺産コンサート、なるものに行ってきました。
京都の上賀茂神社で、高嶋ちさ子さんと12人のヴァイオリニストが名曲を披露するというなんともやんごとないコンサートです。
私達は夕方からの部で、境内の盛り砂が幻想的にライトアップされていたのが印象にのこってます。
すごよかったです。
ふと、横浜の能楽堂に見に行った野村萬斎の朗読を思い出したり。
コンサートやライブなどに行くと、距離は近いけどなんだかあっちとこっち、てな感じで隔絶されてる感じがするんですよね。
透明なフィルターがあって、それを通してみるからこそ芸術、である、というか。
最初のパッヘルベルのカノンから、ずーっと鳥肌立ちっぱなしで。薄寒かったのもあったんだけど(笑)
ラ・カンパネルラ聞いていたら先日アップした「セレンディピティ」の石渡さんと紅子を思い出しました。なんでだろう。でも、神社とか音楽とか、そんなものがそれを連想させたというか、テーマ曲これだわ、というか、よっぽど自分の書いた作品好きなんだなと思ったけど、なんだか不思議に、二人が動いているところを想像して少し泣きそうになりました。なぜだ…
いいヴァイオリンの音をあんなに間近で聞いたのは初めてだったからか、すごく色っぽく聞こえて、悲しい曲が似合う音をしているなあと思いました。
個人的に、ピアノは一番セクシーだと思うんだけど、ヴァイオリンは、艶っぽいというか、美しいおとを無限に美しく出せるのだと錯覚させる力があるというか、演者さんと楽器がひとつになって、それだけが全てで、命のようだな、というか、生きているんだな、というか。
今、ずーっと考えてる話があるけど、たぶんこれ、ヴァイオリンの要素いれますわ…というか石渡さんと紅子みたいになってしまうかもしれないので、それはまずい。ので、もう少し揉むけど、要素は絶対入れます。影響されやすい。
で、先輩と話していて、やっぱり愛される人はそれだけの努力をしていて、そうでない私はやはり愛されないし、私の逡巡などなんの意味もなく、空っぽのままなのだと強く感じました。
どうしたらああして強く、生きていけるのか私にはよくわからないし、きっと、私が感じる何百万倍もの辛さや寂しさを経験して、乗り越えて来たんだとおもう。
私が出した答えや考えていることは、たぶん、何も意味も価値もなくって、悲しいほどに薄っぺらくて。
馬鹿だなって改めて思いました。恥ずかしい限りです。
自分のことしか考えられないから、自分しか、自分を愛してくれないんでしょうね。
悲しいことです。
2013/09/26 きっとそのまま春を越えて
色んなことがばばばばーっと過ぎて行って、そのつどそのつど感じることはたくさんあるのだけど、やっぱりメモしておかないと忘れてしまいますね。
なんだろうなあ。
明後日から鳥取に旅行に行きます。
大学生のころから鳥取砂丘に行きたいとずっと思っていたんだけど、やっと念願かないます。楽しみだなあ。
そんで、話題の出雲大社にも。遷宮とかそんなに興味もないし、似非和風ファンなので神様のどったらこったらとかもあんまり造詣が深いわけではないんですけど、やっぱりわくわくします。
ただけっこう遠くて、移動時間がものすごいんだけど、それもまあ楽しみの一つということで。
あと、仕事をしているうえでちょっとへこむこととか、なんか違う、と思うことは相変わらずあって、もちろん違うことの理由というのか、私が「違う」と思うことを相手が言う根拠もよくわかるし、すごく正しいんだとは思うんだけど、やっぱりそれが私にとっては「違う」んですよね。なんだか。まあ、そういうもんかもしれないけど。
で、その毎回「違う」って思うのは男の先輩なんだけど、毎回これもツイッターで言ってるんだけども、その男の先輩は自分が言うことや自分が憤りをもつことが「正しい」わけですよ、だから、私が疑問に思ったりしてもそれはなんだろう「間違い」までは言わないけど「なんで?」って感じなんでしょうね、そんですごくたたみかけられると心が折れる。私、あんたじゃないからもっと丁寧にゆってよ、とか、もっと考えてることとか噛み砕いてゆってよ、とか、思っちゃって、そうすると私も性格よくないからすぐすねちゃって、話したくなくなるんですよね。
そうすると、先輩が「にゃくちゃん、すぐいじけるから強く言えないよ」なんて言ってくるわけで、まあすねてますけどそれ以上にお前がむかつくんですけど!ってなりつつ、毎日こなしてます。なんだこの日記…
今日もちょっともめごとっていうか、一つの仕事についての考え方が、管理職の人たちと私たち担当者たちの間でずれがあって、それがまた先輩は納得いかなかった模様。
先輩がぷりぷりいらいらするのもわかるし、管理職の人たちがそれで思い悩むのもわかるし、結局なにかを帰るには動かなきゃいけないこともわかってて、でもそれがどうしてもできない場合もあって、なんだかんだ、口だけになっちゃう場面って往々にしてあると思うんですよね。
自分だけのことじゃないから。会社全体のことだから。
こういうの、かんがえるの私ほんと主体性なくって、変えよう!ってなるなら変える方に動くし、現状維持でってなったら現状維持になるし、別に先輩ほど憤り抱えてるわけじゃないんですけど、先輩はすげー憤ってて、なんかもうほんと、すごい憤ってて(それはもう笑えるほどに)
一番近い上司が、その仕事の方針とかをさらに上から指摘されて私たちにこういうことを言われたよ、って説明してたときから先輩ぷりぷりし始めて、
「いやね、ぼくもわかってるんですよ。もちろん。ないものねだりなのもそうですけど、そんなこというんだったらまず○○の戦略的なプランを~~~~」って延々。
指摘されたことについては、前々から指針を文書化したらいいかな、なんて話があったけど遅々として実現しなかったのもあったので、余計に憤慨したのか、自分のいいようにもっていきたかったのか…
「ぼくも主任の言うことはわかるんです。そりゃそうですよ。だけども~~~~」って。
そりゃ主任(仮の役職名ですが)も大変です。上と下からの板挟みなんだもの。先輩が怒るのもわかるし、主任が上に強いこと言えないのもわかる。私と一番上の先輩(女)はふんふん黙って聞いていました。
しょーじき難しいことはわからん!
でも、作ろうとすればいくらでも手立てはあるから作ればいいんじゃないかな?
しかしわたしは作れませんけど。
という脳内ウンコたれ状態でしたけども。
で、主任がちょっと席を外してからも先輩ぷりぷり。女の先輩を呼んで、二人で自販機の方へ行ってしまったのでした。私は一人席で書類のチェックをしたりして少し寂しかったりしつつ、でもまあ、考える気力がない私がその場にいても仕様がないのでもやもやしながら帰ってきましたけど。
そんな今日だった。
そういうのが日常茶飯事なのですごいストレスなんですよね。会社のこと一番に考えて、とか、じゃあそのためによくしていくのか、とか、社会人としては当たり前のことなんだけど、どーも先輩との折り合いが悪いのか、自分が考えてること全部だめって言われてる気がしてすごい自信が持てない。そもそも。まあ、それは、先輩のせいだけじゃないし、私の働き方の問題なのだけども。
はー、ちょっとすっきりした。
そしてもういっこ思ったのは、やっぱり学生時代の友人ってすごく大切だ、ということと、唯一無二だ、ということを、また改めて思ったわけです。
社会人になってできた友人とはよく一緒にいるし、ほぼ毎日顔を合わせてるんだけども、失礼な話すごく「ぴんとこない」。感性がずれているのはよく思うんだけど、それが致命的ってわけじゃなくって、最近ちょっと考えてたんだけど、「同じ場所で笑えない」ってことなのかなと思って。感性がずれてるってことになるんだとは思うんですけど、そこじゃなくって、同じ瞬間にみんなでわわわって笑うことがないんですよね。同期の子と。それがすごく致命的。
大学や高校時代の友達とはもっと、くだらないことでも、不謹慎なことでも、とにかく一緒にみんなで面白いと思うものが一緒で、共有してて、それで一緒に、まるで花咲くみたいに笑えたんだなって思う。
たぶん、自分の美化も往々にしてあるわけですが(個人的にこの「往々にして」がブームらしい)、にしてもあの楽しさと悲しさって異常だったなと思っています。
今日は仕事しながら、大学三年の今頃をふと思い出していました。
意味もなく悲しくなって、本当に悲しくって夜も寝られなくって、友人とお昼ご飯を食べに行ったのだった。私は昼間にお風呂に入って、GAPの朱色のニットとベージュのショートパンツを履いてた。
何を話しても何を食べても味がしなくって、ただ友人が困ったように笑って私を慰めてくれるのを第三者として聞いていたと思う。どうしても、何にも、反応しなかった心があったなあって。そういうときのことを、いつか形にしたいと、考えているんだけど。
なんだかとりとめのない日記でした。
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