どこをみているの
2025/02/07 [PR]
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2014/08/05 深夜のカーステレオ
深夜に仕事を終えて帰る途中、信号がよく点滅に変わっている。
朝の、どんな早い時間にそこを通っても点滅ではないのに、夜の十時を過ぎるとそこは点滅になっているので、朝に強いタイプの信号なのだろうと思う。夜遅いとき、そこをとおると見放されている気分になる。朝は早くからしっかり仕事をしている信号が、夜はずいぶん冷たい。門限を破って怒られた気分だった。今日もちなみにそうだった。
腰を据えて日記を書こうとすると、どうも堅苦しい文章になってしまう。
自分では、ホームページで公開している小説と本にして印刷した小説ではちょっと雰囲気が違うなあと思う。それはきっと、印刷した方が時間もかけてかなり本腰を入れているからだと思う。ホームページは、どっちかというとゆるゆると自分が好きな方に逸れて行って、戻りたかったら後戻りができるけど、本はそうはいかない。当たり前だ。
でも、「よっしゃ書くぞ~」っていう気持ちで、作品に向き合う時間が長ければ長いほど、堅苦しい文章になるような気がする。本当はもう少し柔らかい文章が書きたいと、常々思っているんだよ、俺は。
でも、まあ、かちっとした文章は好きだから、なんでもいいけど。
ライトノベルや、フランクな語り口の文章が苦手なのは、そういう根底の好みがあるのだろうと思う。フランクな語り口、というよりも、テンションが高くて書いてる本人が一番興奮しちゃっているタイプの文章。自分がたとえテンションが高くても、読めないと思う。
「さあさあ、そこのお嬢ちゃん、ちょっと俺の話を聞いておくんなましよ。え? そんな余裕はないって? こちとら金をとろうとしてるわけじゃあないんだよ。人間余裕が大事ってね……」
みたいな感じのもので、だから、正直な話、落語も苦手なのであった。どうでも良い情報。文章で読むのも、そのままの調子で語られるのも苦手。どこに自分のテンションを持って行っていいのかよくわからなくなってしまう。そっちがテンション高めに来るんだったらこっちも、と思っても、こちらは聴衆であり読者なので、テンションを高めにしておいても放出する場所がない。文章やストーリーでテンションを上げてくれるものではなく、こちらのことなんかほったらかしで盛り上がられるのが苦手なんだと、今文字にしていて思った。
小説、というのは、やっぱり崇高であってほしいというのが私の想いなので、どうもテンション高いものは受け入れられないのでした。なので、「マイ・カズン」(「ビオトープ」収録時は「Broken Youth」)なんかは私にしてはちょっとテンション高めの文章です。
そりゃあ、そういうのが楽しいときももちろんあります。
そんなこんなで日付が変わってしまった。
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2014/08/02 わたしのいばしょ
今日は友達と棚田に行ってきました。カメラを使わないといけない。
なだらかに見えるけど結構な坂道でした。あいにくの曇り空だったけど、綺麗な青田です。たまに風にそよそよ揺れるるのが夏を感じさせました。蛙が何匹もいて、そいつらが動くたびに揺れるさまがまた美しかった。
あと、川があったので足だけつかって遊んだけど、ちょうどいい冷たさでおほほ、と笑えてきた。水遊びをして足を拭いて、靴下を履いた感覚が独特だよね、なんて友達と話しながら。
靴下の下に、薄いヴェールをまとっているような気分でした。ほんのりと温かくなる。それは嫌な暑さではなくて、体の奥から滲む母親の素質。
里山の景色がとても好きで、写真集も何冊かもっているのだけれど、こういう場所に行くと自然は雄大でこの場所に生まれて、この場所に骨を埋める人しか受け入れてくれないというか許してくれないのだろう、という気分になる。なんだか自然は気高い。
目の前の景色に感動しても、空気がいいねえとか喜んでも、決して私はその場所の人間にはなれない。溶け込むことはできない。んだと、思う。
大学四年間、暮らした場所はずいぶんのどかな場所で、通学路にはいつも田んぼが一面に広がっていた。奥には連なる山があり、あれがこの場所をつかさどっているんだと思っていた。人間なんかその麓で細々と暮らしている小さな命なだけで。
その場所も気高くて、私のことなんか歯牙にもかけてくれなさそうだった。個人的には四年間の暮らしの中で少しは空気に馴染めたと思っているけれど。
はたと、あの場所ではヒグラシがよく鳴いていたと思い出した。
就職して地元に帰ってきてよく思うのは、大人になってしまうとそこここにある小さなものへの感動や憤りや不安や喜びや悲しみや怒りやその他もろもろのもの、が、隅へ隅へと追いやられてしまうのだろうということ。
それは私が変わったのかもしれない。心が悪い意味で動かなくなってしまったのだろう。
電線などで切り取られない青々とした空や、工場の明かりなどない真っ暗な夜空に輝く星、隣家に遮られずに見えるけざやかな月。そういうものを、とうの昔にどこかに置いてきてしまった。
この場所はとても貧相だと思う。美しいものがあまりない。それはまあ、私の中の「美しい」基準だけども。
この場所から出る前は、「美しいもの」などに感知することもなかったけれど、出たからこそ知ることができたし、そしてまた、ここには何もないのだということも知った。
夏の夜に蛙の声が聞こえないこと、早朝に雉が鳴かないこと、夕立ちが上がるとヒグラシが泣き出すこと、そういうさまざまなことがここにはないんだなあと思う。
昔のブログを見返していると、そういう美しいものに囲まれた私はひどく不安定で不憫だった。でも、その時の私は私が思う「美しいもの」を紡ごうと必死だった。言葉一つ一つ、誰かを想うこと、自分と向き合うこと、を、一生懸命していた。でももう、その頃の私は、もう、大人になってしまった。
仕事をする上で根拠を探す。相手とは適度な距離を保つ。自分とは向き合えない日々が続く。
環境の所為にするのはばかげているとは思いつつも、あの頃にはもう、やっぱり、戻れないんだよなあ。
目に映るすべてのものが、ただただ美しかった。歪んで見えた。何もかもが新しい発見だったし、懐かしいものだったし、おぞましく、可憐で、大好きだった。
悲しい。
あと、やっぱり話すぎるというのは、よくないと思った。
話さない人が皆、何か含みがあるように思えるから羨ましい。私はもちろん話しすぎるタイプなので、含みとかは何も持てないし、悔しい。
映画の感想につけても、言葉を連ねてどうにかこうにか伝えたいと思うけれど、感想を語らない人の方が、たとえば、映画の奥底まで感じ取っているように思える。私はそこが知りたくて、また言葉を重ねるけど、話さない人は教えてくれない。
でも、寡黙な友人曰く、話さないというか語彙がないから話せないし、あまり深くは考えてない、という。むしろ、自分に合致する言葉をそれだけ話すことができるのは羨ましい、という。
語彙がないから話せない、というのは、詭弁だと思う。
とは言っていないが、それは理由にはならないと思うんだけど、でもこの考え方も私の身勝手なんだろうな。
別に語彙が多いからそれを見せつけたいとかそんなことではないし、話しすぎてしまうのも自分の感じていることを伝えないだけなんだけど、こういうことを言われると肩透かしを食らった気になる。し、やっぱり羨ましいのだった。
話しすぎるとただただ物事に対して否定ばかりしている気になってくるもので。
言葉をつかさどるバランスが難しい。
2014/07/29 ファンデーションの残り香
なんだかんだでやっとデザイン落ち着きました。もうしばらく触らないだろう。
web拍手も更新したので、よければぽちっとしてみてください。
ずーっと書きたいと思っている日雇い×女子高生のお話。の、切り取りシーン。
シーンが一個一個浮かんでうまくつながるときもあれば、そうではないときもある。
セレンディピティーなんかはその最たるもので、なんか出会う場面、お祭りで初めてキスをする場面、石渡さんが泣きながらピアノを弾く場面、そして最後にカフェで会うシーンができあがり、それを繋げていく。大体書きたいシーンが先にあって、そこにただ辿りつくように書く感じ。
場面、というか、絵なんでしょうかね。なんとなく。
でも、サナトリウムみたいなのはそのシーン、そのシーン、が、たぶん私の中で完結してしまうのかな、つなげても物語にはならないんだよなあっていう。つなげてしまったらまったく別のものになってしまいそうだし、自分が大切にしている「書く」という「興奮」が一気に醒めてしまうような気がする。
「自慰」のためと、「作品」のため、というか「作品」っていう言葉はあんまりしっくりこないんだけど、こう、誰かの生きるシーンを切り取るために書くか、では、大きく違う。でもまあ、正直なところどちらも自慰のためなんだけど。
こういう人がこういうことを言ったら萌えるな~とか、こういう人が言わなさそうなことを言わせたいな~とか、こういう人はこういうこと思ってなさそうだけどな~とかそういうところから物語ができて行ったりする。こともある。
何の話なんだろう。
そういえば先日、分かり合おうとする姿勢を見せない人はすごく面倒だなと思いました。
分かり合おうとする姿勢、というか、うーん、なんというのだろう。
分からなくてもいい、という態度をとってくるというか、なんかずっと平行線な人。当たり前に会話が成り立たない。確固とした自分を持つのはまあ良いとは思うんだけど、会話は相手がいないと成り立たないわけであって、つまり、だから、あなた何がしたいんだろう、というか、うーん、会話がかみ合っていないのはわからないのかな?という気持ちにさせられるというか。
でも、相手も自分と同じようなことを考えているのかもしれないから、やっぱりそういうところもかみ合わないんだろうなあ、と、思う次第なのであります。
仕事でなら「あ~この人と仕事したくねー、でも仕事だし、資料とか持っていけば相手の出方とかわかるしな~」なんてことでこなせるけど(とはいえこなせない場合も多々ある)、私生活の場でそういう人と関わりがあるとむしゃくしゃするというかむかむかするというか、心にしもやけができてしまうような感じですね。
しもやけって、かゆいようで、かいてみると「え、ここじゃない」なんてことがあります。でも、やっぱりそこがかゆいと思う、んだけど、「やっぱりここじゃない」ってなる。
人間関係難しいな~
でも、まあ、攻撃性がなければなんとかいけます。
そんな感じでおやすみなさい。
2014/07/27 君の夢がかなうのは
サイトを少しデザイン変えました。にしても、見にくい…
もういっそのこと、作品だけにしたらええかしら。ホームページって難しい。なんかうまくいかん。
結局、自分のブラウザでしかきれいに見えないんだろうっていう感じするしなあ。
なので本当はフレームとかも使わない、まっさらなのにしたいんだけどねえ。
あと、戻るボタンとかすごい嫌いなので、できればトップページで作品もオフラインも見えるようにしたいけど、結局かさばるんだよなあっていう感想。
スクロールもしたくないので、やっぱりツリーメニューかな、と思うけど、ツリーメニューも結構エラーが多いからそれも面倒だったりするんだよね。
ちなみにオフラインのページが一時凍結なのはえぐいほど文字化けしてしまってるので。
おそろしや。
あと、ウェブ拍手のお礼画面変えないとな。
2014/07/18 つづき
大阪の文学フリマ、先日しっかり振り込んできましたので何事もなければ参加できます。
いえいいえい。
9月14日(日)11時~
第2回文学フリマin大阪
@堺市産業振興センター イベントホール
です。場所は、今回は純文学のジャンルで申し込んでみたので、前よりは番号が早いのですかね。
あんまりそういうのよくわかんないのでいいですけど。
持っていくものは
・ビオトープ(206頁/500円)
・さよなら(250頁/600円)
ですが、あとは無料配布用で、三つぐらいお話を入れたものを30部ぐらい持っていこうかと思います。無料配布なんでもっと持っててもいいかな。
無料配布に関しては、大阪文フリ終了後にサイトでも公開する予定です。ただ、冊子の方がなんかレア感あるのは私だけか…
本当は、「さよなら」お買い上げいただいた方には、収録作「聖家族」の後日譚みたいなものをつけたかったんですが、ちょっと書いてみたらあんまりにも蛇足だしただのセックスしたいサグラダさんみたいになっちゃったのでやめました。性の問題って難しいよ。
それに、東京や通販でお買い上げくださった方には渡せないので、やっぱそれもなんか不公平ですよね。
といいつつ、ちょっと書いてもったいないので、追記に掲載しますので、そういうの嫌いじゃない人はどうぞ。
ちなみに「聖家族」は26歳すぎたのに未だ処女で家族と自分にコンプレックス持っている麻理也ちゃんと、無表情でひょろひょろしてて何考えてるかわかんないサグラダさんという男の人のへんちくりんなお話です。よかったらパブーで試し読みしてみてください。私は結構お気に入りのお話です。
あと、無料配布に入れるお話は、今のところ、家族の事故をきっかけに笑えなくなった女の子と人じゃなくなった従弟のお話と、彼氏の浮気相手の男と真っ向勝負する女の子のお話と、あともう一個何か入れたいんですが、中々浮かびません。
ので、なんかいい案あったらコメントください(基本的に他力本願)
[つづきはこちら]
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