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「何度も言ってますけど」 焦ってしまって声が上ずっていることにサグラダさんは気付いているのか気付いていないのか、気付いていたとして、それでも馬鹿らしいと思っているのか、相変わらず私には計り知れない野郎なのだが、とはいえ私は何度もしつこく主張しなければ自分自身があっけなく崩れてしまいそうなので必死になる。サグラダさんは無味乾燥な瞳で私を見つめていた。でも言葉は発しない。「本当に何度も言ってますけど、ほんとに、私」「処女なんでしょう」 こともなげに言ってしまえるのはやっぱり男だからだろう。あんまりにもあっさりとその言葉が出てきたので私は呼吸を忘れた。 処女とか童貞とか、性的なものにまつわる言葉は、男性のための言葉なのだろうと歳を重ねるごとに思う。あいつのちんこがあの子のあそこにどうとか、セックスの手順はどうとか、どうせ処女だしとか、童貞っぽいとか、心中ではいくらでも毒づける言葉の数々も、私の口からは到底押し出すことができない。なのに、零士もサグラダさんも平気でそういうことを言ってのける。あの、性に奔放な美紀子ちゃんでさえも、直接的なことは言わないのに(夜がご無沙汰とか言う、少し古めかしい暗喩を使ってくるのもどうかと思うが)、どうしてこう、男というのははっきり言い切ってしまえるのだろう。サグラダさんなんてその最たるものだ。顔色一つ変えずにそんなことを言うのだから、本当にこの人は何を考えているのか推し量れない。彼と会って二回目の冬がきても私はやっぱりわからなかった。 とにかくとんでもなく変態か、とんでもなく心が凍てついているのか、とんでもなく人に興味がないに違いない。 でなければ、こんな二十七もすぎて処女の私と向かい合っているわけがない。「僕、何か間違ったこと言いました?」「いえ、別に……」「じゃあ、もう、いい加減この体勢取ってるのもきついんですけど」「でも、本当に」「処女なんでしょう」 サグラダさんはシルバーフレームのメガネをくいっと持ち上げる。二回も言いましたね、これだから男はと睨みつけても、相変わらず彼の瞳はたじろがない。そんなことよりも、私を組みしき、覆いかぶさっている自分の体を支える腕が疲れたらしい。私はできるだけ小さく縮こまるようにして彼の体の下にいた。 今日、こんなことになるとは思っていなかったから至ってふつうの、水色のブラジャーとショーツ姿だ。美紀子ちゃんだったら、サグラダさんと一緒にいるときは気合いをいれて黒のサテンとか総レースのセクシーな下着を選ぶのだろう。ますます自分がしみったれた処女っぽい。お腹の肉も最近出てきたし(肉の付き方が母にそっくりだ)、さして痩せているわけでもないけど胸はないから形容しがたい貧相さだ。これで胸がもう少しあれば、太っていてもセールスポイントにもなりえようが、こんな貧乳じゃあ救いようがない。自分の悪いところなんてあげだしたらきりがない。人に見られるわけがないと思っていた体が、自分以外の視線にさらされたこの心もとなさに、私は情けないことに泣きそうになっていた。 大体、本当に今日はこんなことになるなんていうのはこれっぽっちも思っていなかったし、サグラダさんが私を抱くなんていうことも私の理解の範疇ではなかった。酔っているとか変な薬を飲んだことで正常な判断ができなかったなんて言われたらまあ十歩譲って私を抱こうとしたこともわかるけれど、私たちは今日、お互いにお酒は飲んでいない。というか、私たちはこの一年、食事をしようが、世間一般でいうデートをしようが、お酒を飲むことはなかった。 思えばこの一年、女友達よりもサグラダさんとお茶をしたりどこかにでかけることが多かった。といって、私たちが意識的に距離を縮めたかというと、恋愛経験がほとんどない私からしてみても、これはたぶん恋愛じゃないと思う。 私たちは一緒にいてもあまりしゃべらない。というか、私自身もサグラダさんのどこが良いのか自分でもよくわからないし、サグラダさんも私のどこが良いと思っているのかさっぱりわからない。でも、定期的にメールがきて、電話があって、ご飯を食べて、コーヒーを飲む、というのがお互いの習慣になっていた。零士なんかはバカなので、私たちができていると思っているらしいが、そういうには決定的な何かが足りないし、美紀子ちゃんはフミくんに友達ができてうれしいと純粋に喜んでいるが、私の方は美紀子ちゃんに疾しさを覚えているので友達というのも違う気がするし、でも、わざわざサグラダさんに「私たちの関係って友達以上恋人未満ですよね」なんて確認もできないし、その言葉もしっくりこないし、じゃあやっぱり私たちの関係はなんだかよくわからないものだと思う。この一年で変わったことと言えば、サグラダさんの髪の毛が少し短くなったことと、私がサグラダさんの無表情を苦手だと思わなくなったこと、そして、サグラダさんが私のことを「麻理さん」と呼ぶようになったことぐらいだろうか。 今日だって、夕方に駅ビルに雑貨を見に行ったらサグラダさんがいたので(これは本当に偶然だった)、夕飯でも食べるかといって少し早い時間にカフェで夕飯を食べ、まだ時間があるので家で映画でも見ますかと誘われたので、のこのことついてきた。それだけだ。サグラダさんの家には何度も着たことがあるし、そのたびに何にもなかった。手を繋ぐことも、キスをすることも、一年前のあの日以来、何もなかった。むしろあの日がおかしかった。目の前で吐いた男と手をつないでキスをして、海外にでも行きましょうと約束までした。サグラダさんは、義理とはいえ妹と体の関係のある自分のことを頭が沸いていると言ったけれど、目の前で吐いた男とキスをした私も十分沸いていたのだ。「麻理さん、別に僕はね」 サグラダさんはふう、と溜息をついて私の上から退いた。視界がはっと明るくなり、いつのまにか見慣れたサグラダさんの部屋が視界に映る。ここで、母に嘘をついて泊まったこともあるが、裸同然の体でベッドに横たわったのは初めてだった。今まで、手を出されずにいたのが奇跡だったのか、手を出された今日が奇跡だったのか、私にはよくわからないが、とにかく羞恥心をおさえるために布団を引き上げて首まですっぽりと覆った。エアコンは冷える部屋をちょうど良い温度に保ち、私たちの間も温めたままでいる。「処女とか、君がセックスしたことないことを、気にしたりはしません」「……私は気にします。それに、色々、何にも片付いてないです」「美紀子のことですか」「……」「……あれとはもうずっとセックスなんてしてません」「は」「本当はもうずっと、してません。ここでしたことなんか一度もありません。ここでは、誰とも、ありません」「うそ」「嘘なんかついてどうするんですか。君、いつもそうですよね。最初に会ったときもなんかそんなこと言ってましたよね。僕、嘘なんかついたことないですよ」「だって、美紀子ちゃん、この間あなたと、」「別に美紀子のことを信じるならそれでいいですけど」 私に背を向けるように、サグラダさんはベッドの端に腰掛けた。彼もボクサーパンツ一枚でいる。背骨が浮いていて、やっぱり歪な一本の骨のようだ。痩せていて、頼りない背中は白い。「僕は嘘、ついてませんよ」 彼が言うとおり、彼が嘘をついたことは一度もない。それは認める。 初めて会った飲み会の席でも、サグラダと聞き間違えたのは私の方で、サグラダさんはちゃんと「桜田」だと名乗っていた。どうしてこうも、私は人を穿ってみることしかできないのだろう。でも、もう、こんな生き方が染みついてしまった。母が誰かを妬むたび、謗るたび、こんな風にはならないでおこうと心に誓っていたのに、こんなにも、母の血が私にも受け継がれている。怖くなり、ただ、サグラダさんの背中を見つめていた。でもそこにある白い岩のような彼の背中はじっと動かない。私はぎゅうと掛布団を掴んだ。沈黙がこんなに気まずいものだと、すっかり忘れていた。 サグラダさんは普段からあまり話さない。私も、サグラダさんが話さないなら話さない。でも、それは沈黙とは違う。本当の沈黙は、こんなにも痛々しく体中に刺さる。「……寒くないんですか」 耐え切れずに出た言葉は私の人生の中でも三本の指には入るほど、バカみたいでしようもない言葉だった。そろそろ朴念仁のサグラダさんも怒り狂うのではと思ったが、彼は至ってふつうの声で、こちらは見ないまま頷いた。「寒さには強い方ですから」「そうですよね。サグラダさん、コート持ってませんもんね」「あんな重いもの着る気がしれませんよ。君のあの……なんでしたっけ」「スナオクワハラ」 初めてサグラダさんに会ったときに着ていたスナオクワハラのコートを言っているのはわかった。彼がお洒落だと言ってくれたので、その冬中、私はずっとガリウールを着続けたことをふと思い出した。今日ももちろん着てきた。「おしゃれなのはいいですけど、あんなの実用性のかけらもないですよ。重すぎます」「いいんです、おしゃれだから。処女に見られないようにしてるんです」「別に、あなたが歩いてたからって誰かが君の処女膜を透視してるわけじゃないのに」「だ、だから、なんでそういうことすぐ言うんです」「君も大して変わんないですよ。君が執着しすぎだって話です。みんな初めてはあるんですよ」 サグラダさんは大きなため息をついた。呆れているのか、怒りすぎているのか私にはわからない。彼の顔を見て話していたって何を考えているのかわからないのに、背中でなどわかるはずがない。これ以上話していると悪い方向にしかいかない。それぐらい、私にもわかる。本当は私が身を明け渡すべきなのもわかる。 それでも、この布きれをとってしまったら私には何も残らない。処女という、どこか古めかしい価値も免罪符もなくなって、ただの面倒な女になってしまう。「……三十路も目前で初めてがあるなんて怖すぎて意味がわかりません。こんな体を見られることも恥ずかしいし、何もかもが恥ずかしいんです。私だってバカだって思ってますよ。でも私、処女なんですよ。その意味、わかってますか。この年になるまでまともに男の人と付き合ったことがないんです。自信ないんですよ」「そんなの」「サグラダさんは、私としたいなんて思うんですか。美紀子ちゃんがいるくせに」「君はじゃあ、したくないんですね」 サグラダさんが振り向く。正確に言うと首だけをひねって、半分だけこちらを見た。瞬間、空気の凍る音が聞こえた。 言葉を声に出しただけなのに、空気を汚したわけでも形に残るわけでもないのに、口から出た瞬間、それはもう、誰にも止められない。時には暴力になって時には武器になって時には愛を語って、でもすべて、誰にも、平等に、引き返すことはできない。「……ごめんなさい」@@@@というところで力尽きました。