忍者ブログ
どこをみているの
2024/05/02  [PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2016/12/07  追憶
今、どうしても話したい人がいる。
なんでもいい。話したい。何を話すかは知らない。目の前にしたら、きっと話せない。
話す当てはない。その人、その人たち、彼らを見ていると、泡のような言葉が浮かんで消えていくのだ。どうしようもない、気持ちが、言葉が出てくる。
非難でも慈愛でも、なんだか違う。形容できない。でも、おそらく、どうにか名づけるとしたら、既視感。私はきっと、彼らと、食い違う既視感を、共有したい。でもきっと、食い違うから共有にはならない。むしろどんどん乖離するはずだ。でも、聞きたい。話したい。何か、言葉にならない、過呼吸の二酸化炭素みたいなもの。
でも、彼らは私のことなぞつゆほども知らないで、つゆほども、思い当たらないで、その人たちの生を歩んでいる。私はいつも、そのことが悲しくて、うらやましくて、悔しくて、そうしてまあ、そのうち忘れる。言葉も。でも、ずっと既視感を持ち続ける。ああ、話したい。何を話そうか、考えても何も言葉は出てこない。言葉にした瞬間に、ただの痴話になる。
でも、私は、彼らを目の前にしたら、きっと何も面白いことなどいえないのだ。いつも、友人や後輩や恋人にたたく軽口も、どこかに消え去って、私はただ立ちつくし、その人たちの絶望をかみしめるだけだ。意味のわからない絶望。本当は、彼らのいうことなんか一つもわからない。でも、わからないことが私を安心させる。
わからないことが既視感なんだろうか。根本のところがわからないけれど、おおよそ似ているからこその既視感なんだろうか。
本当は話がしたい。いくらでも、うなずきたい。いくらでも、意味のわかない暗闇を紡ぐ言葉も、意味をなさないただ無機質な言葉も、温かな蔑みも、いくらでも聞きたい。
それはきっと、永遠にかなわないので、私がただ焦がれて消えるだけだ。そのうち、この気持ちも消える。知らない。それは別に、どうでもいい。
ああでも、話がしたい。

***

私はどこの世界にも所属したくないのだなと思う。
というか、所属できなかったのでこういう負け惜しみをいうようになったのだと思う。仕事の世界も、趣味の世界も、どこかに所属する、ことができるほどは、何も好きじゃないのだ。好きだとしても、世界の住人たちに比べればカスみたいなその熱量で、世界で生きていくにはひどくしんどいので、まあ適当な言い訳とかこだわりとか並べてみているだけだ。適当というか、やけくそな。でも、そんなもの並べるぐらいだったら、もう何も言わなきゃいいのに。というのは、いつも自分自身に思い続けている。
どれだけ、誰が、何を言おうと、私は私で、私が私のことを一番知っていると思う。思い上がりというのはまた語弊があるけれども、でも、まあそういうことなので、自分では自分をどうすることもできないし、自分がどうすることもできないので、自分以外誰もどうすることができないから、たぶん一生このまま、どこの世界にも属せないとか、許せないとか、死ねばいいとか、でも死なないとか、そういう風なことを巡って、まあ、でも、最終的には死ぬ。だからいいよね。

***

そういうところは生活の端々に出ていて、ああ私がいないときに誰かが私のことを悪く言いませんように、と、こわごわと祈って生きている。無意味なことだ。私の生きざまも性格も、誰の何にも影響しない。ということはわかっていつつも、祈らずにはいられない。
何のためかはよくわからない。でも、そうだな、誰も、私がいないところで私の話はしないでほしい。

***

何かが書きたかった。何かを描きたい。
誰かと一緒に、一人でも、誰か、読んでほしい。
私が書き記すものごと、私が思う日々のこと、私のことを、誰か、話してくれないか。聞いてくれるだけでかまわない。私のこと、何もない私のこと。
たぶん、これが一番なのかな。

そういうことをしていたら年の瀬がきた。うそだ。いや、本当。

拍手

PR

<<「ウーパールーパーに関する考察」感想HOMEいとおしくたたきつけて>>