どこをみているの
2025/02/07 [PR]
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2013/05/08 3月25日
昨晩には結構な量を荷詰めしてあったが、やはりこまごましたものはでてくる。
ラックを壊し、段ボールに詰めてゆく。
思い出がしまわれていったのに、これっぽちも思い出せるものがなく、相変わらず脳内は空っぽのような、思考が完全に止まってしまっていた。陽だけが暮れるのである。
友人の誘いをうけ、駅前へ向かった。黙りこくった友人が、手を繋ぎたがっているのはわかっていたが、そんなアホらしいことはしたくなかったので無視する。
他の友人とも合流し、オムライスを食べた。最後になるのであろう、駅ビルの中のスターバックスに立ち寄り、電車の時間まで何ということはなく話した。
二人を改札まで送ったというのに、一人の友人が私を追いかけてきたのには、一瞬にして熱も冷めた。なぜそこまでするのか、と。手を繋ぎたがる気持ちも、やはりわからない。自分がその気持ちを向けられることを理解するのは、長い時間をかけてもほどけないような気がしている。
星の美しい夜だった。
彼女の気持ちは伝わっているが、伝わっていないのも同然だった。
友人をバスにおしこめ、やはり最後になるであろう暗い道を歩いた。鼻歌の一つも歌わず。
相変わらず、星の美しい夜だった。外灯は少なく、怖さもあったものの、静謐さを体現している、その地の夜は、誰にも邪魔されぬ確信を帯びていた。きっと、どれだけ時間が経っても、あの地はあのままやもしれぬ。
眠る前に、昨日受け取った手紙と、今日受け取った手紙を読んで、布団の中で涙があふれた。
やっとタガが外れた。そんな気持ちでいた。
布団は温かく、夜は静かだ。
手紙を書くつもりはなかったという彼女の手紙は、本当に、私の内側を震わせ続けている。自己嫌悪ばかりの自身が、やわらかく包まれた。そう思ったのだった。許された。そうとも思えた。
決して、上手いとは言えない字でつづられた3枚の手紙は、4年間の幸福だったこと、辛かったこと、悲しかったこと、そういったものを私のものにしてくれた。忘れてしまうけれど、決して忘れえないことだった。
涙をためたまま眠り、気付くと朝であった。相変わらず室内は散らかっており、心の中もまだ散らかったままでいた。昨日の涙はなんだったのかと思いつつ、引っ越し業者の仕事ぶりを見つめていた。
あっという間に室内は空っぽになり、あとには薔薇が一輪だけ残るのみとなってしまった。
薔薇が、白い壁に影を作るのが大変むなしい。
4年間生活した場所が、失われるのである。
もちろん思い出に形はないし、私が持っている記憶が思い出なのであって、場所にとらわれるものではない。また、思い出由来のものがあれば、そのものを見れば思い出を思い出すことができるのだろう。
しかし、思い出は、もはや失われてしまったという気持ちの方が大きくもあった。
急に心の中や脳裡に、スライドショーのように色々な記憶が浮かんでは消えて行った。早すぎるし、いつのものかわからぬし、美化もされている。しかし、涙がボロボロと溢れて止まらなかった。
駅へ向かうタクシーの中から眺めた、さまざまな店、うっそうと茂った木々、歩きぶりの悪い道。
広い道路、見え隠れする学内、コンビニ、カラオケ。
そうしたものが、それらにまつわる思い出が、すべて失われてゆくのだ。それが寂しく、また、たまらなく悲しかった。
私たちは余儀なく大人になってゆくのであり、それは免れられない。
そして同時に、思い出も失っていくのだろうか。
****
ていうのを、一年前に書いていました。
久しぶりに思い出して読んでみたら、なんかもうしょうもなく泣けてきて、なにこれ、みたいな。
分かってもらえたりするのかな、と思ってブログに書いてみたりする。
まあ、ただ、残しておきたかったんだけど。
新潮文庫からでてる「マイブック」に、その日の出来事を小説風にまとめる、みたいなのが
その当時自分的にはマイブームだったんですね。今も、たまにやっていますが、
マイブック2013が見つからなくて無印の罫線無の小さなノートに書いています。
(といって、最後が4月1日なのでもう丸一か月は書いていないことになる…)
フィクションを入れながら、ノンフィクションを書く、みたいな、それはもうノンフィクションではないのだけれども
そういうので練習になるんだったら書こうと思って書き始めましたが
結構自分の書き癖みたいなのがわかって面白いというか、憂鬱になってきます。
なんたって暗い。どんなふうに書いたって自意識が軽くなるわけでもないし、自己嫌悪もどんどんひどくなるので
なんかこのノートに書いてる人、病気なんじゃないの?と思ってしまったりする。
結局、こういうノートを書き始めた理由も、
自分の感受性、というか、小説を書こうという気持ちの根本が見えなくなってしまって、焦ったからだと思う。
というか、今もだけれど。
日々に忙殺されるがゆえに、もっと、こう、空の青さに一喜一憂したりとか、
夕暮れの風に殺されそうになったりとか、そういう、一日一日、四季の移り変わり、機微、そんなものに対する
敏感な感性や、そういうものを追えなくなっている自分にちょっとがっかりしていて、もったいない気がしていて、
うー、相変わらず言葉足らずだけど、
つまりはそういうことで、どうにかこうにか、文字をつづるっていうことができなくなりたくないっていうか、
語彙不足とかそういうのじゃなくて、なんだろうか、
寂しさを忘れくないんです、たぶん、そういうことだ、うん、そういうことで(遠い目)
いつも、いつも、寂しいんです、っていう、気持ちというか、その情景というか、
最近は自分のことばかり考えすぎていて、そうなると景色なんてどうでもよくなっちゃうんだけど、
本当はそんなことなくて、そういう、景色の中にも悲しさや寂しさっていうのは含まれていて
自分の生活している中で聞いている物音、人の視線、音楽、景色、空気、匂い、
その中に存在している寂しさを、悲しさを、忘れたくはなくて、そういうものを、誰かと共有したくて、
忘れたくないので、こうしてノートに日記調で書きなぐってみたり、ブログを書いてみたり、
その最終形として小説を書いているわけで、ああ、またよくわからんことになっている。
大体、私が饒舌になるときって心に余裕がないときか寂しいときか、悲しいときで、
つまり、今は心に余裕がなくて寂しくて悲しいので、どうにかこうにか、なんか小説読みたいし書きたいんですけど。
そういう、感じです。
だから、この寂しさを知っている人と、そっと、寄り添っていたい。
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