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2014/05/25  そうやって思い込んで
ここ数日、何か書きたいな~という欲はあるものの、書きたいもの(ネタ)がなくて中々満たされません。難しいな。誰か話考えてくれないかな。書くから()。

そういうわけで、何か書きたいと思っていたので書き途中のものを漁って書いてみたりしたんだけど(リクエストでもいただいているので)、中々かけない。まだまだ消化は先になりそうですが、どうにか今年中には終えることができるだろうか…はたまた…
今すごく続きが書きたいというか終らせてしまいたいのは「かなちゃんと私」と「君ありし」。まあこんなのは私のたわごとですね。恥ずかしい。

恥ずかしい、という気持ちは常日頃から持っていて、気を抜くとすぐにそのことに囚われて死にたくなってしまう。太宰治の人間失格じゃないけど、自分には多分に恥ずべき部分があるのだと自覚しないともっと恥ずかしいことになる、と、自分に言い聞かせている節があります。なんかややこしいな。
こういう、創作をしている場で、ここは私のHPでブログでなんでも好きに書けばいいのだけど、なんだかよくわからない人の目を気にして、恥ずかしくなります。
というか、自分の小説を意気揚々と語ることが中々できない。なんか恥ずかしい。
でもふと、ああ、今ちょっと、気付いた。
私は、そもそも、小説は自分のことを書くべきだと思う、というか、ストーリーや主人公の裏側にその人が見えるものが好き、だな、といつも思っていて。
その人の人格、生活、人生、好きなもの、嫌いなもの、そういうものが見え隠れする物語が好きです。私小説まで行くと、それは自分のことを書きすぎているような気がするから、見え隠れ、というのがとてもみそなんだけど(自分としては)。
小説を通して、その人の好みを知ったり、シンパシーを感じたりして、それが誰かの救いになる。自分の救いになる。小説は、私にとってそういうものでした。これからも、きっとそうかもしれない。
私が太宰治や綿矢りさが好きなのはそういう理由がある。まあ太宰治はどっちかというと私小説よりになるのかなあ。あの人の寂しさがとても好きなんだけどね。
私も、自分の想うこと、自分の経験したことを小説に織り交ぜている、ので、そういうのをやっぱり朗々と語るのは恥ずかしい、というか、自分語りをさらに詳細にしてくる、というか、恥ずかしい行為なのだなという、だから私は語れないのかもしれない。まあ語るけど。
あとは、どれだけの人がそのキャラクター語りを楽しんでいるのだろうか、ということも純粋に気になるし、なんか思い上がっているように思うので、やっぱりできません。
失礼かもしれないけれど、オタクってそういうことしたがる、というのも、私もしたがりだから、あまり人のことを気にしないで、自分の小説のここは面白いんだよとかこのキャラクターはこうなんだよ、とか、言っちゃうけど、やっぱりそれってなんだか恥ずかしいよな。茶番劇のようだ。
いやまあ、茶番劇だけど、本人たちは真面目だし自分の作った世界の愛おしい生き物だからそりゃ愛着もわくっちゅー話ですね。うん。否定するのもなんか私恥ずかしいな。
うちうちのコミュニティーないでしてるなら全然いいと思うんだけどね。なんか恥ずかしいね。
ま、私がそれをしなきゃいいし、それを見なければいい話なんだけど。

あと、ファンタジーとかが苦手なのもそういう理由、で、キャラクターとかをそんなに作り上げられても、結局私たち読者には何の影響もないじゃないですか、文章での表現がすべてと言うか、そこで読み取れなかったらいけない、し、ファンタジーなんて、すべてがすべてその世界を作り上げる駒、というか、ファクター、だから、逆に作者なんか見えちゃいけないってこともあるのかな。だから苦手なのかも。

小説は不思議だな、と、いつも思う。
(とりあえず文章を書きたい欲は満たされた)

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