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どこをみているの
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2012/11/24  光谷
先生がいらっしゃらない家は、がらんとしているわけでもなく、ただ、家主不在の昼過ぎの時間がゆっくりと流れていた。
ここで、皆で素麺をすすってみたり、火鉢で餅を焼いてみたり、凡庸な日々を送っていたのは、当の私たちであるというのに、蘇りもするのに、何もかもが活動写真の中の出来事のようでもあった。
ただただ、時間は流れて行き、私も藤崎さんも家も景色も朽ち果てて行くのに、そこに先生がいらっしゃらない、ということが、信じがたく一切の現実味もなかった。
不在。
亡くなったのではなく、不在。
まるでここにいるかのような錯覚に囚われては、先生を目で探している。
穏やかな午後、静かな雨の中、夕暮れの霧の中、朝露の散歩の途中、帰ってくるのではないかと、寝室から起きてくるのではないかと、縁側に座っているのではないかと。
妄信的に信じているわけでもなく、夢に出てくるわけもなく、私は日々を過ごす中で先生の死に際を思い出しながらもなお、先生を探している。

「ご機嫌はいかがです」
「あら、どこの二枚目かと思ったら」
藤崎さんはフェルト帽子をふわと持ち上げて小さく会釈をした。いそいそと向かいの席に座る。いつだか、先生の見舞いに行った帰りに二人で寄り道をした喫茶店だった。
私は毛糸の帽子を、先生のために作っていた。今思えば粗雑な出来映えだったが、先生はひどく喜んでくださって、亡くなるときもあれをかぶってらっしゃった。そのあとどこにいってしまったのか、わからない。
藤崎さんは給仕に珈琲を頼むと、一度だけ咳払いをした。大事なことを言うときの彼の癖だった。先生のことを二人で見守るうちに、彼とも縁が深まった。
「私は渡英しますよ、鮎子さん。これからは外に出ねばならない時代になるでしょうから」
「……もう、帰ってらっしゃらないのね」
「そのつもりです」
「寂しくなるわ…鴎四郎さんも遠くに行かれてしまったし」
先生と同病で入院していた青年の付き添いもまた青年で、気の優しい穏やかな方だった。先生が亡くなる間際、遺書なぞを書いていたものだから私が癇癪を起こしたときも、鴎四郎さんは驚きながらも私と先生の仲を懸命に取りなそうとしてくださった。
そんな彼も、付き添っていた青年・葵さんが亡くなり、家業の農園を継ぐとかで実家に帰ってしまった。汽車に乗っても遠く離れた場所。先生や葵さんの思い出を共有できる相手はもういない。ときたまに季節の果物を送ってくださる鴎四郎さんは、先日はよく熟れた梨を箱一杯にくださった。芳醇な甘みを噛み締めると、五人で過ごした病室の白い床を思い出すようで、あわてて女中などを呼び食べさせた。無為に感傷に浸ることもしたくなかった。
もう一度、藤崎さんが咳払いをする。珈琲が運ばれてきたが、一切カップに手を伸ばそうとはしない。私はすっかり覚めてしまった紅茶を一口、唇を湿らせる程度に含む。
「貴女は今、心ここに有らずでしょうから、聞いたとするか聞いていなかったとするかは、ご自由にしてください」
彼は穏やかに微笑んだ。
「一緒に、来てはくれませんか。不自由はさせません」
口のなかに、紅茶の渋味がじわりと広がる。先生は冷えた紅茶がお好きだった。温かいものをいれても猫舌だから飲めぬとかで、程よく冷めるのを待つ間に話しすぎてしまいすっかり冷たくなった紅茶や煎茶を好んでいた。楽しかった時間を過ごした証拠ではないか、と、よく笑っていらっしゃった。
「……私は……鳴瀬の死に際に、彼のそばにも貴女のそばにもいられなかった男だ。そんな私に貴女をつれて行く資格があるのやら、わからないが、それでも、私が、嫌なのです。一人になるのも。一人にさせるのも」
「藤崎さん、私は」
紅茶をもう一口飲もうとおもってソーサーごと持ち上げてみたが、手の震えのせいでカタカタと小刻みに音をたてるのが嫌でテーブルにおいた。じいと見つめる琥珀色の飲み物の表面にきらきらと細やかな埃が浮いている。
「一人、だなんて、思っていませんの……思えませんの」
不意に藤崎さんは伏し目がちになり、どんな重苦しい空気が鎮座していようとも軽快に言葉を投げ掛けていたのに、口を閉ざしてしまった。
「私、一人だとはどうしてと思えないんです、まだ、先生が、会えないだけで、この世のどこかにはいらっしゃるみたいで」
どうしても、と、言葉を紡ごうとして、舌がひりひりと痛むようで続かなくなる。
泣きそうだった。
それは、言葉にして初めて気付く虚無だった。
先生は、鳴瀬先生は、もうこの世にいらっしゃらない。その事は、私も藤崎さんもいやというほど了解しているというのに、事実は受け入れられぬのだった。
先生が、この世からいなくなるということの心積もりはしていたはずなのに、いなくなってしまった後の世のことは、私たちの手に終えないほどに空しさに溢れていた。
あんなにも、慕い、あんなにも、穏やかに、過ごしていた日々があったればこそ、彼がこの世のどこにも存在しないということが、認識していても、到底受け入れられぬ。
「……マリアなどと、言わないで」
「鮎子さん」
「わたくしには、そんなしかく、ありません、こんなにも、なぜせんせいだったのかと、ほかのひとではいけなかったのかと、いまもまだ、」
藤崎さんの、大きく温かな手が私の手に重なった。先生の手は小ぶりで、かさついていて、あたたかかった。藤崎さんの手は、大きく僅かに湿って、でも、やはりあたたかかった。彼の目も湿り気を帯びて私を見つめている。
それは、あの真っ白い病室で、恐ろしくなるほど静かで穏やかな寝息をたてていた先生を、二人で見守っていたときに見た瞳と重なった。
「……貴女がいなければ、私は、鳴瀬の死を受け入れられなかったでしょう。いや、その事実にさえ封をして、見ないふりをして、今もなお、のうのうと生きていたに違いない。ここを出るのも逃げに他ならない。貴女ほども、私は、彼の死と向き合えんのです」
ゆっくりと首をふるとそのせいか涙が一粒するすると頬を伝っていった。
「私たちが悩みあぐねいても、事実は変わらぬし時間は経ってしまう。喪失感はなくならんのです」
彼は珈琲を一口飲んだ。すっかりさめてしまった黒い飲み物は苦味ばかりだろうに、眉ひとつ動かさずに、藤崎さんは涙を溢して笑った。
「それでも、あいつは生きていた。その事実も変わらんのですよ。鮎子さん」

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