どこをみているの
2025/02/06 [PR]
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2015/06/14 とびきり美しいやつ
「とびきり」という俗っぽい感じと「美しい」という正しい形容詞の組み合わせが結構ぐっと来たりする。そういう言葉に触れたときに「あ、なんかいいモノ見つけた」とちょっと嬉しい気持ちになる。そういう風に、生きています。
最近、自分というものに肩透かしを食らうことが多くて困惑しているけれど、思うに、おそらく自分が思っているよりも自分は何もできないんだなっていう、そのことに、気付こうとしている気がする。仕事をするでも、人間関係でも、文章を書くということでも、やっぱり突飛なことはできないし、私は私以上の何かを残すことっていうのはできないのだと思う。
人間関係が狭いのも、上手くいかないのも、相手がどうのよりも、自分自身の跳ね返りというか結局相手は自分の鏡であるということに今更気付くというのか。仕事も、もう数年勤めてわかった気になっていても、それに固執してしまっては意味がないというか、知っていることとできること、教えること、知ること、は全然別物で、だから最近生きているということがとても乖離していてすごくすごくつらかった。
先日あんまりにも自分の中の、友人との差がつらくて、文章を書けないことがつらくて、仕事の人間関係がつらくて、何もできないということを知った瞬間、知ること、が、もうとにかくそういうものが全部押し寄せてきて死にそうなほど悲しくなって、会社一歩出てわんわん泣いてしまって、車に乗りこんでからもわんわん泣いてしまって、全然泣きやめなくて、アクセル踏んでも方向指示器はねても信号でとまっても涙が止まらなくて、ああもう私も終りだと結構本気で思ったんだけど別に終わってなかった。
もうこれ以上、自分のことわけわかんないんだったら病院行こうかとほんとに思った。思ったけどたぶん思うだけで、心のどこかでいやいや大丈夫やろうと思っているので、だから、たぶん行かないんだろうし、なんかそういうのここで書くのもずるいな。ずるいってなんやねん。
自分の弱さやもろさに耐えられなくて、年をとるごとにすぐ泣いてしまうようになった。誰かの支えを必要にしているはずなのに、誰かに支えられている人を見るとすぐに幻滅してしまう。誰かを支える人を見ると絶望してしまう。私はそうじゃないのだと信じている。そうじゃない、の、なにが「そう」でなにが「じゃない」のかわからんけど、たぶん、誰かと番になって生きている人と、私はきっと違うんだろうと思う。
仕事の同期で、たぶん、彼氏がいないとどうにもならない子がいる。いなくても、そりゃ生きているんだけど、いないと安定しないとでもいうのだろうか。それに、たとえば職場の先輩。先輩も結婚して、よく奥さんのことを気遣っている。その話を、さも一大事のように言う様に辟易してしまう。当然のことなのに。当たり前のことなのに、誰かを支える人や支えられる人を見ると胸焼けする。
そりゃ私だって、一人で生きているわけじゃない。一人で生まれたわけでもない。だけど、誰が私を致命的に支えてくれているだろうか。そんなの誰、なんて、私は答えられない。私が誰かを致命的に支えているだろうか。はっきり言う。いない。
そういうことに、いつも押しつぶされそうになっている、けれど、私は私以上のことをなし得ないのだ。私が支えないのなら、必要とされないのなら、私は誰かに支えられないし誰かを必要とはしない。私は、私以上のものでも、以下のものでもない。
文章を読みかえしたり書いたりしていて、やっぱり創作畑の人たちのように楽しむことはできないしその畑に間借りすることもできない。私は、私が書けるものしか書けない。それはたぶん、特別なことではない。恵まれた才能もなければ恵まれた環境があるわけでもなく、枯渇しているわけでもなく、熱望しているわけでもない。私は私でいるだけなのだ。ああ、なんてばかげていて普遍的な答えだろう。解法はいつも自分の中にあるのだね。
だからまあ、一時期の気が狂いそうなほどの虚無感からは少し解放されたようなされていないような気がしています。
とびきり美しいものを見つけたい。そういう言葉みたいに。
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