どこをみているの
2025/04/29 [PR]
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2015/01/18 「乳と卵」感想
「乳と卵」川上未映子著/文春文庫
娘の緑子を連れて豊胸手術のために大阪から上京してきた姉の巻子を迎えるわたし。その三日間に痛快に展開される身体と言葉の交錯!――amazonより
最後の一文いらないんじゃないのこのあらすじ…?と思う。のであった。
前から、金原ひとみはよく読んでいて、金原ひとみが好きな人なら川上未映子も好きだろうなと思う。つまり、女、ということをいやというほど表にだしてぐいぐい押してくる。今や結構主流になっているかもしれない。アマゾンのレビューで、いかにも芥川賞選考委員が好きそうだとかなんだとか書いてあったけどまさしくそういう感じがありました。豊胸に固執する巻子と、そんな母に心を開けなくなっていく緑子。その二人をどこかぼうっと見つめる巻子の妹。基本的に妹の視線で話が進むけど、女性なら結構「はあはあ」と思うところがあるんだと思う。男の人はこういうのを読んでどう思うだろう?
色んな方面から、といって、実は一方向のみの、女へのアプローチ。それはもちろん女から女へのアプローチで、視野が狭いようで実はそれがすべてだったりする。なんかうまく言えないな。
女、ということは、どういうことだろう。女、である、ということ、たとえばそれは、胸がある、化粧をする、股間には何もない、とか、生理があって、つまりそれは子どもを産む構造が体に備わっているということ。だ。巻子は、胸が小さくて、豊胸に固執しているけれども、それって何のためだろうと思う、が、巻子自身も、もうとらわれすぎていてよくわかってないのかもしれない。でも、なんか、わかるんだな。何のためって言われれも、それはもう、なんだ、自分のためでしかないというか、自分の「女」という性のため、でしかない、というか。
そういう、「女」という部分に固執する母に緑子は嫌悪感を感じていて、言葉を発さない。何も言えない。自分だって女なのに、女という生き方がまだ飲み込めない、の、かもしれんのだけども、いやもう上手く言えないな。うん。
女性作家が女性を描くと、どうも因縁めいたものになってしまうよね。リアルすぎて、もうリアルじゃなくなってしまうというかな。女のくせに女をけなす。女を憎む。でもその裏側は、女という性を愛している。女としての生きにくさを愛しているんだろう。不思議なのは、男性作家で男性のことをこうもこき下ろす話ってないんじゃないかって思うよ。そういうところで、女性は愛情深いのかもしれないね。
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2015/01/12 「金閣寺」・「雪国」・「その女アレックス」感想
年末ぐらいから、友人と課題図書を決めて、読んだら感想を言い合わない?というのをやっていて、12月は「金閣寺」、先日は「雪国」と読みました。せっかくならばブログにもちゃんと感想を残しておこう~と思って、書く次第です。あと、気になってたミステリの「その女アレックス」も読了したのでその感想も。ネタバレはしません。ミステリなので。
◆「金閣寺」三島由紀夫著/新潮文庫◆
一九五〇年七月一日、「国宝・金閣寺焼失。放火犯人は寺の青年僧」という衝撃のニュースが世人の耳目を驚かせた。この事件の陰に潜められた若い学僧の悩み――ハンディを背負った宿命の子の、生への消しがたい呪いと、それゆえに金閣の美の魔力に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたった悲劇……。31歳の鬼才三島が全青春の決算として告白体の名文に綴った不朽の金字塔。(Amazonより)
ということで、ほんとに有名ですよね。この年までちゃんと読んだことがなかったので読んでみようと思い至りまして。ただ、三島由紀夫って聞いて絶対に途中であきらめてしまいそうなので友人も巻き込むことにして。
もともと、中学生のときに全国模試のテストで出たんですね。どのシーンだったかは忘れたけど「金閣寺」が出て、全然わかんなくて(笑)読み終わっても思うけど、中学生に解かせる問題じゃないだろと思うんだけど。
主人公・溝口は、病弱な父の縁故で金閣寺の住職にお世話になっている学生。吃音が原因で引っ込み思案な性格で、外の世界とのつながりが全然持てない(と言い切ってしまうのはちょっと乱暴かもしれないけどもうこれでいいよ)。父が金閣寺を美しい、と言っていた影響もあって、溝口も金閣寺の(本人の妄想の産物でもあるけど)美しさに取りつかれて、最初は美しさに魅了されてるんだけど、そのうちに憎々しくなってきて燃やしてしまおう、と思う。
というかなりざっくりな。話です。文章が美しいとか、金字塔とか言うけれど、私はやっぱり三島由紀夫のナルシシズム溢れる文章は好きになれないなと思いました。すごいよ。そういう意味では。あと、冒頭で、溝口が中学生ぐらいのときに、中学を卒業して士官学校に通っている先輩が軍制服で中学に遊びにくるところがあるんだけど、そのシーンは最高に綺麗だった。で、たぶんそのシーンがほんとに溝口の総てだと思う。
溝口には、二人の、対照的な友人というか同年代の男が出てきて、一人は鶴川くん、彼は溝口と同様に金閣寺に一緒に住んで修行している見習いさん。彼はとっても純朴でまっすぐで、溝口曰く、鶴川は自分の陰の部分を陽へと翻訳してくれる存在。つまりなんだろうなあ、ほんとにまっすぐで、溝口は自分にはない鶴川の明るさを愛していた。もう一人は柏木。陰陽のスケールを用意して、その真ん中に溝口を置いたとしたら、陽の一番端っこは鶴川で、その反対の端は柏木ってな具合で、陰陽どっちにも振り切りきれない溝口に比べて柏木は悪い奴。だけど、柏木は、だからこそ中途半端な溝口とは違い、金閣寺なんか燃やそうとしなかったんだろうなあ。
お話の主題は「認識と行動、どちらを変えることでどちらが動くか」ということだと、私は思ったけれど、もうこのちっこい脳みそでは限界だったよ。他のブログをちまちま読んだりして、はあ、なるほど、と、人の脳みそに頼るしかできませんでした。
◆「雪国」川端康成著/角川文庫◆
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。「無為の孤独」を非情に守る青年・島村と、雪国の芸者・駒子の純情。魂が触れあう様を具に描き、人生の哀しさ美しさをうたったノーベル文学賞作家の名作。(Amazonより)
これもそのまんまですね(笑)でも、やっぱり哲学的にあふれた金閣寺よりは、こっちの方が断然好きでした。文章がまず読みやすいので。ちなみに一緒に読んでいる友人は金閣寺の方が好きみたいだったけど。
主人公・島村は無為徒食の身。妻子があれどもあっちにふらふら~こっちにふらふら~。そんな彼が雪国の温泉場で関係を持っている芸者の駒子。初めてその温泉場に行ったときに、まだ芸者ではなかったけれども村中の温泉芸者が出払っているため、踊の師匠の家に身を寄せている駒子を呼んだ島村。駒子の美しさや清潔さを見て、君とは関係を持たないでいい友人でいたいから、他に芸者を紹介してくれ(抱く用の)とか言うんだけど、結局駒子と関係を持ってしまい、その次の日に島村は帰ってしまう。そして、今度は温泉場がしんと雪に包まれる季節に島村がまた駒子のもとを訪れる。
これは本当に男女の関係がよく表れているお話。です。物語の目線は島村で、なんかもうね本当に島村にイライラするんですよね。駒子は、本当に島村のことが好きで、だけど島村はそういう気がないこともわかっているから惹かれないようにしている。でも、やっぱり好きだ、という情熱がほとばしっていく。のにも関わらず、それを目の当たりにしているのにもかかわらず、島村は駒子を慰めるでもなし、情熱を向けるでもなし。自分の所為でもがく駒子のことを「徒労」とすら言う。島村にとって、駒子は「徒労」であるからこそ美しいという風に思っている。そういう駒子を好きな自分を愛している。駒子はそういう島村に気付いていて、またそういうダメ男が好きな女がいるんですよね。ちなみに、駒子の踊の師匠の息子の彼女というのが出てくるんだけど(長い)、その子がまたすごく、いつも真面目でね。島村はその子のことも気になるんですよね。駒子はそれにも気づいていてかたくなに彼女の情報を島村には教えない。それがまた哀れ。なんです。でも、駒子かわいい。
友人と話していて、女性は男性よりも愛することに長けているんだろうという話になりました。そして友人が一言、「女性がどれだけ愛しても、男性は下手だからうまく愛しかえせないんだよ。男は愛しがいがないから」と。名言だな。
◆「その女アレックス」ピエール・ルメートル著/文春文庫◆
おまえが死ぬのを見たい―男はそう言ってアレックスを監禁した。檻に幽閉され、衰弱した彼女は、死を目前に脱出を図るが…しかし、ここまでは序章にすぎない。孤独な女アレックスの壮絶なる秘密が明かされるや、物語は大逆転を繰り返し、最後に待ち受ける慟哭と驚愕へと突進するのだ。イギリス推理作家協会賞受賞作。(Amazonより)
ここまで二作純文学からのがらりとミステリ。この小説、このミスとか早川書房とかのミステリ系のランキング総なめだったみたいです。あんまり得意じゃないんですけどね。読んでみました。
三部構成で、二部までは主人公(?)の警部であるカミーユたち視点と、謎の女・アレックス視点でころころ変わるんだけど、二部のラストで「!?」ってなって、でもあと一部あるけど……ってなりますが、でもまあちゃんとまとまってて。うんうん。
監禁されて、監禁された場所とか方法を探る、じゃないんですよ。監禁事件はほんの足がかりで、被害者であるはずの女・アレックスが実は…となっていく様、とか、無関係なようで実は全部繋がっていたりする。まあミステリの常套手段っちゃ手段ですね。だも、やっぱりおもしろい。
なんだけど、言うほど大逆転繰り返すかな!?と思いました。というのも、年末にデヴィット・フィンチャーの「ゴーン・ガール」見ちゃったので、あれ見た人はちょっと既視感あるかもしれない。これ壮絶なネタバレ?でもないと思うけど。でも、私しばらくはあの「ゴーンガール」の衝撃に勝るものはないと思っているよ。すごかったよ。
で、そうそう、先に「金閣寺」とか「雪国」読んでいた身としてはミステリすげー読みやすい!ということ。すごいぜ。どんどん話が進む。すごい。すごいよ。という感じ。もうめたくそですね。
2015/01/02 立つ瀬に
元旦にブログ書くのも微妙だなと思いつつ、結局元旦(日付変わっているけど)に書いている。まだ寝てないから私にとって今日はまだ元旦です。どうでもいいです。
2015年ということで区切り(?)がいいので、HNを変えることにしました。
みなもとはなえ
と申します。
ずいぶん長い間、こんにゃくというHNを使ってきて愛着というか自分はこんにゃくですという感じ全然抜けないんだけど、なんか思い立ったが吉日生活で変えることにしました。心境の変化とかは特にないけど、若干祓みたいなところはあるかもしれない。
こんにゃく、というHNは高校生の時に仲の良かった友達がつけてくれた名前で、だけど今やもう彼女とは全く連絡もとらず、まあいつもどおり私が色々勝手に潔癖症を発動して切ったという顛末があるのですが、名前は延々使い続けておりました。なんかシュールかな、みたいなね。
私の書くものって、純文学よりではあると思うので、でもそういうのを書いてる人がふざけた名前だったら面白いかなとか思っちゃって、ずっと使ってたんですよね。山崎ナオコーラさんみたいなイメージでした。自分の中では。
だけど、なんか色々、ぐだぐだしてる中でなんか脱ごうと思って、じゃあまあてっとり早く名前?みたいな感じです。とはいえ、ツイッターとメアドの署名変えたぐらいなんで全然影響ないっていうかああそうですか、という感じでしょうけどね。
あと、「こんにゃく」って当たり前にエゴサしにくいんだよね。私もクソみたいな乞食なんで、たまにツイッターでエゴサかけるんだけど「こんにゃく」って名前でサーチしてもまずあたるわけないんですよ(笑)なんで、まあそういうのもかねて。邪心はみ出しまくりだけどね。
長い付き合いになればいいなあと思います。由来は省略。
2014/12/31 さようならもいえずに
さようならもいえないで2014年が終わると思っていましたが、なんとか時間ができた。
というかさようならを言うのは2014年に向けて、なんだけど(なんかちょっと意味がわからない)。
2014年を振り返る、みたいなことをしたいんだけど正直2014年、何があったかさっぱりわからなくって思い出せないことが多いのでなんか悲しいですね…うん…
あ、でも、2014年は「さよなら」を発行した年でした。初めて東京の文学フリマに出て、九月には大阪の文学フリマにも出た。ちゃんとやってるじゃん…(?)
仕事面では4月から担当替えがあって(おもに私だけだが)、違う担当ではあるけれど後輩ができて、ちょっとイライラしたりもしたけど面白い子なので今は全然イライラしないです。素直だからね。素直っていうのはすごく大切なことで、人の話を素直に聞くとか、注意を素直に謝れるとか、尊い。私は、というか、結構な人が注意を受けることをよく思わないけれど本当はすごく大切なことだし、注意はその人のことを良くしようと思って話していることだし、怒るとはまた別だので注意ができる人としても、いたいです。小中高と、規律の中での学校生活に慣れてしまうと、「注意」っていうのがとても大悪のように思えてくるし、確かに注意する先生ってめちゃ怒ってたし、だけど本当は怒ることじゃない。というか、大人になって大人を怒るって違うと思うんだけどさ…
で、なんだ、2014年。ですか。ああ、でも特に何もないな残すもの。
「さよなら」を書き上げてからというもの、というか、東京文フリに出てからというもの、何かを書くっていうことが億劫になってしまってて。
そりゃあね、誰に頼まれたわけでもないし自分が好きで書いているのでそういうこともあろう、と。だけど、小説、とか、まあ絵とかなんでも、創作ごとをしている人ってこういうのでなんか自分の存在意義とかを秤にかけたがるっていうか、語りたがるっていうか、私もご多聞に漏れず、だが。
別にそういうこともあるんだってぐらいの気持ちで、いたらいいんですよね。だって世の中には私が書くものより、ごまんと面白いもの巧みなものがあふれかえっていて、そういうものを知って私が嫌になるのも当たり前で、ちっぽけな自信だってなくなりますよそりゃあね?
今まで、自分のアイデンティティ(とか大袈裟なほどではないけれど確かにそうとしか言えないな)だったものがそうじゃなくなるっていう感覚は、ああ私には何もないなって思わざるをえないですが、でも、そういうものなんだよね。そういうものなんだ。確固たる自分なんて、どこにもないんだと思う。どこかにあるかもしれないけれど、目に見えて言葉にできるものではないのかもしれない。
自己紹介が苦手です。自分がどういう人であるかを述べることはできない。没個性のような人間だから。きっと。創作の中ではそれなりに自分の色があって自分の文字があるけれど、それはそこだけの話だ。うーん何が言いたいのかわからなくなってまいりました。いつものことですが。
というか、だからね、まあ、そんな大したことじゃないって思ってます。だってまた、書きたいときに書くことができればよいのだし。きっとかけるだろう。言葉を忘れたわけじゃあるまいし。
ただ、もしかしたらもうネット上での公開はできないかもしれないし、現在中途半端に終わっている長編なんかをちゃんと終えられたらさようならかもしれない。そんな先のことはどうでもいいですね。
なんか創作の住人達が苦手っていうのもあるし、自分がそこに馴染めないっていうのもあるし。さまざまです。悲喜こもごもです。なんでもいいわ!
でも、2014年はそういう意味で囚われていた自分が少し楽になった気もする。なんか好きにやるのが一番だから。周りを見て焦るのは当然だけど、でも、それはそれ。自分は自分の歩幅でしか歩けないから。大股は疲れるし。小股は進まないし。自分の歩幅で、行くしかないんだな。
あんまりよくわかんない感じですが、まだ当分はInUは存続しますのでよしなに。
あ、でも名前は変えようかなと思っています。今度本を作る予定があるので、そこまではこんにゃく、その後はまだ未定ですが、なんかもう少しまともな名前で…
そういうわけでおやすみなさい。じゃなかった!良いお年を!
2014/12/23 なんやかや
なんやかやで、結局一年が過ぎていくんだなあと思います。今年もあと一週間。いつもそういうこと言ってる気がする。でも、大抵の社会人は仕事が年度区切りだろうから、3月までは一年経ったって感じしないと思うんだけどね。私は絶賛そうですが。
私は今年で25歳になったけど、来年には26歳になる。年を取る制度って本人の認識しているいないに関わらず、強制的ですね。個人的には、三十路になってようやく五年分ぐらいの「年をとったな」感が襲ってくる気がするんだけど。つまり、なんだろう、25歳になってようやく「20歳から5年も歳をとったのか」という気になる、ということでして。毎年「誕生日だよ」っていうのやめようよ。五年刻みでいいと思うんだよね。年を取ることが嫌とかいうことじゃないんだけど、毎年祝われたりすると逆に年とった感じがしないっていうか、重みがないと思いませんかね。私だけか。うん。でも、年とるだけじゃあやっぱり重みってないんだよなあ。だってほんとに歳とってるだけだし。みたいな。年を取るの場合の「とし」は歳が正解なのか。まあいい。
年を取ることは結局おいていくということのみなんだろうかなあ。二十歳が三十歳になって四十歳になって、そうやって老いていく。死に近づいていく。ことのみなのかな。わかんないんだけどさあ。重みってどの辺からでてくるんでしょうか。この「重み」ってのもずいぶん曖昧なこと言ってる自覚はあるけど。うーん。人生としての肉厚?いるか?
生きてきた人生で、やっぱり人となりが別れるって不思議なことだなと思ってて、あたりまえなんだけど、目の前の人は自分とはまた別の個体っていうことが、不思議だ。その不思議は私を魅了している。触れても中身はわからない。一緒にいても、何も得られない。不思議だ。その人の体の中にしか人生は宿っていない。
こんなこといってるうちに、また一日が終わっていきます。
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