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2014/08/07  恋煩い
髪の毛を切ろうと思って、美容院を予約するととってもおしゃれなことをした気分になる。気分になるだけで、別にお洒落になっているわけではないのだが、しかしおしゃれな感じがする。
どうでもいいが、「おしゃれ」はひらがなの方がおしゃれだと思う。

ここ数日ちゃんと日記が書けているので自分でもえらいと思うけれど、いい加減ネタ切れになってきた。本の一冊や二冊読めていれば感想が書けるけど、最近は日記をつけるということに躍起になっているので読書の時間も割いている。本末転倒だ、と、思ったけとどこに本末があるのかよくわからないので別に転倒もしていないと思う。

よく、男性の先輩が私のことを「姫」と呼ぶのだけれど、そういうことを言ってちょっといい雰囲気を出そうとしているのが見える。
いい雰囲気、というのは決して私のことを好きとか女性として見ているというわけではなく、ふざけてそう呼んでみて、いい雰囲気を醸そうとしている、んだけど、そんな関係じゃないよね、というところを含みつつのいい雰囲気です。うまく言えない。
そういう、「姫」なんて呼ぶと勘違いしちゃう子もいるかもしれないけど、あくまで俺たちの関係はそんなヤワなものじゃないよね、もっと強固な信頼関係があるよね、と、目配せしてくる感じです。お互いに分かり合っているからこそ「姫」と呼んでも勘違いしないよね、という、意思疎通をはかってくる感じ。しゃらくせえ、と思いますが。

私は自分が女性として意識されることはまったくないと自覚しているので、自覚していてさらに自分の「女性」性を売りにする女性は本当に「女性」という性を謳歌しているなあと思います。
もちろん、お洒落をしたりアクセサリーをつけたり化粧をしたり、私は私なりの「女性」を楽しんではいるものの、でもそれはすごく女性の「表面」だけであって、「内面」の「女性」はあまり楽しんでいないというか楽しめないという表現がいいのかな。
男性に媚を売ることが「女性」であるというわけではないのだけれど、そういうことをしてもいいのはやっぱり「女性」だけであって、特権です。別にそれを売りにすることや、「女性」は庇護欲を誘うものだから守られてしかるべきという考え方の女性がいてもそれで良い、とは、思うのだけれども、しかし、そういう女はやはり煙たがられる。必ず敵ができますね。
自分が美人でもないし、スタイルが良いわけでもないから、「女性」としての性をふるうには若干の戸惑いがある。でも、「女性」の性というのは表面の話ではないから、ぞんぶんに「女性」を振りかざせばよいのだろうが、私には内面的な「女性らしさ」みたいなものはないんだなあと思う。
あとはいかに冷静にならないか、もしくはいかに冷静に自分を見極められるか。

そういえば、「どうして恋人作らないの?」という質問に「出会いがないんです~」という奴は自分に自信があって、「出会いがあれば自分でも恋人ができる」と思っているからだという話を聞いた。揚げ足取りみたいだなと思ったけれど、そんな風に思われたらいやだから気を付けようと思ったし、私がもしそんな風なことを聞かれたら「砂利でも食ってろ」と一蹴してやろうと思う。

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2014/08/06  スイカバー
夏だけしか出ないスイカバーが好きです。
あのスイカバーってロッテなんだ。井村屋とかそういう渋いところから出してるものだと思っていた。
果物のスイカが好きというわけではない。もっというと苦手だ。スイカを食べるとカブトムシの気持ちになるんですよね、と、先輩に言うと大体笑われる。
でも、茄子とかキュウリを見ると鈴虫やらコオロギやらを思い浮かべる人もきっといるだろうからそれと変わらないと思う。
私は二人姉妹だったので、姉も私も夏休みにカブトムシに興味はなかったから、虫かごで飼うなんてことはしたことがない。でも、男の子の家に遊びに行ったりすると必ずといっていいほど虫かごがずらりと並んでいて、カブトムシやクワガタを飼っていた。あれってうまく育てられるのだろうか。
今思うと、夏だけ売っているカブトムシやクワガタって、つがいで飼えばまた卵を産んで、幼虫が帰って、夏に成虫になるのだろうか。そうでなければ冬までに死んでしまう。なんというインスタントペットなんだろう。
ハムスターやリスとかの小動物はまだ意思疎通がはかれそうだし「懐く」という概念が通用するように思うけど、カブトムシやクワガタ、そういう昆虫でもとくに季節感の強いものは本当に死ぬまでの様を眺めているだけということなのではないのだろうか。そんなんじゃ到底命の大切さなんてのは学べないと思うけど、よもや親も昆虫でそんなことを目指しているわけじゃあないでしょう。

ということではなくて、スイカの話。
スイカ、果物の、つまり「本物」のスイカは苦手なのだけど、飴やアイスの「偽物」のスイカ味は結構好き。スイカバーもそうですね。あのおいしさは半分はチョコチップのおかげというのもある気がするけど、それも含めてスイカバーは好きだ。それも含めてって言い方ちょっと変だけど、とにかくスイカのアイスはとても好き。
同じ様に、その特徴が誇張された「偽物」の味で好きなものが結構ある。メロンとかレモンとか桃とかそうです。メロンは「本物」の味を食べると咽喉がすごく痛くなる。飲み込むのに勇気がいる。すごく淫猥な感じがするのだけど、そんなことないのでしょうか。とくに熟れまくったメロン。
桃は「本物」も好きだけど同じレベルで「偽物」も良い味を出していると思う。「本物」は上品だし、「偽物」は可愛らしい。どちらも合格点(と個人的に思う)。

ときとして、嘘をつかれた方が楽なように、「偽物」の味の方が特徴を押さえつつも数倍おいしいものがある。
もちろん、生のものを本来のまま口に入れることが一番良いこともわかっていつつも、それでも、やっぱり偽物を選んでしまうときもある。

やっぱり、嘘に似ている。

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2014/08/06  野菜の気持ち
冷房は、体を冷やすためにあるのだなあととても得心した。
私の部屋は狭いので、エアコンで冷房をつけるとすぐにガンガンに寒くなる。なので最初の三十分だけ冷房にして、涼しくなったら除湿にするのだけど、たまに作業なんかをしていて冷房のままにしてあるのを忘れてしまうと、いつのまにか真冬に外に放り出されたかのような寒さに襲われる。冷え症なので、手先足先がものすごく冷たい。でも、死体の冷たさではないんのだが、しかし、冷たい。
そういうときに、体を冷やすものなのだな、と、思うのであった。そういう設備だからそうではなくて、体の奥底で実感したという感じでした。しかし寒かったな。
冷たい空気にあたって冷やされると、野菜になった気分だ。スーパーの生鮮食品コーナーを通るたび、小さいころは体が小さいからずいぶん寒く感じていた。鼻水をよくたらしていたと思う。今は、生鮮食品のコーナーでそんなことはないのだけど、冷房に冷やされるとそのときの気持ちがふと蘇ってくる。そういうものです。

自分がよくわかっていないことを人に教えるというのは難しい。
今少し忙しいので、バイトさんを臨時で雇って自分ができない雑務や単純作業をお願いしているのだが、今年から私も配置換えがあったのでやってほしい作業の意味が自分でもよくわからない。ので、説明ができない。自分でやりながら確かめる方法で大抵の仕事を進めるタイプなので、ただただ困惑してしまう。そして、困惑する私にバイトさんも困惑している。
バイト、といっても若い人ではなく、私よりも年上の几帳面な方なので余計に困惑してしまう。もちろん私が。向こうもバイトは初めてみたいなので余計にお互いかみ合わない。それがストレスになってしまうので、本末転倒だなあと思いました。

今日何かの作業をしていて「あ、これは小さい頃もこういう作業好きだったなあ」と思っていてブログに書こうと思ったのに、そして帰ってくる直前まで覚えていたような気がしたのに、さっき「よし、書こう」と思ったら全く思い出せなくなってしまった。気持ち悪いなあ。
今朝から今までのことを今なんとなく思い返したけど、やっぱり思い出せない。
さっきまで地図に線を引くという仕事をしていただけど、小学生のときに社会のテキストとして地図帳というのがあって、色んなテーマごとに日本地図や自分が住んでいる地域を色鉛筆で塗り分ける、という作業をする本があった。それをなんとなく思い出していたけど、書こうと思ったことではなかった。私は地図帳があんまり好きではなかったので。一度さぼると数ページ放置していた。
すると、毎回毎回、一回にこなす量が増えていくのでまたやらなくなる。そういう面倒くさがりな子でした。

今思えば、面倒臭がりだった。テキストも宿題も大体貯めるタイプだった。
だから、夏休みの友も塾の問題集も、すぐに解くようにしていたのかな。昔の自分はあんまり覚えがないけれど、まあ、半分ぐらいはちゃんとした優等生として、半分は面倒臭がる前の予防線で早くやっていたのかな。えらいな、私。

ちなみに今日も、点滅信号だった。

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2014/08/05  深夜のカーステレオ
深夜に仕事を終えて帰る途中、信号がよく点滅に変わっている。
朝の、どんな早い時間にそこを通っても点滅ではないのに、夜の十時を過ぎるとそこは点滅になっているので、朝に強いタイプの信号なのだろうと思う。夜遅いとき、そこをとおると見放されている気分になる。朝は早くからしっかり仕事をしている信号が、夜はずいぶん冷たい。門限を破って怒られた気分だった。今日もちなみにそうだった。

腰を据えて日記を書こうとすると、どうも堅苦しい文章になってしまう。
自分では、ホームページで公開している小説と本にして印刷した小説ではちょっと雰囲気が違うなあと思う。それはきっと、印刷した方が時間もかけてかなり本腰を入れているからだと思う。ホームページは、どっちかというとゆるゆると自分が好きな方に逸れて行って、戻りたかったら後戻りができるけど、本はそうはいかない。当たり前だ。
でも、「よっしゃ書くぞ~」っていう気持ちで、作品に向き合う時間が長ければ長いほど、堅苦しい文章になるような気がする。本当はもう少し柔らかい文章が書きたいと、常々思っているんだよ、俺は。
でも、まあ、かちっとした文章は好きだから、なんでもいいけど。

ライトノベルや、フランクな語り口の文章が苦手なのは、そういう根底の好みがあるのだろうと思う。フランクな語り口、というよりも、テンションが高くて書いてる本人が一番興奮しちゃっているタイプの文章。自分がたとえテンションが高くても、読めないと思う。
「さあさあ、そこのお嬢ちゃん、ちょっと俺の話を聞いておくんなましよ。え? そんな余裕はないって? こちとら金をとろうとしてるわけじゃあないんだよ。人間余裕が大事ってね……」
みたいな感じのもので、だから、正直な話、落語も苦手なのであった。どうでも良い情報。文章で読むのも、そのままの調子で語られるのも苦手。どこに自分のテンションを持って行っていいのかよくわからなくなってしまう。そっちがテンション高めに来るんだったらこっちも、と思っても、こちらは聴衆であり読者なので、テンションを高めにしておいても放出する場所がない。文章やストーリーでテンションを上げてくれるものではなく、こちらのことなんかほったらかしで盛り上がられるのが苦手なんだと、今文字にしていて思った。
小説、というのは、やっぱり崇高であってほしいというのが私の想いなので、どうもテンション高いものは受け入れられないのでした。なので、「マイ・カズン」(「ビオトープ」収録時は「Broken Youth」)なんかは私にしてはちょっとテンション高めの文章です。
そりゃあ、そういうのが楽しいときももちろんあります。

そんなこんなで日付が変わってしまった。

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2014/08/03  気分屋のデアリード・ルルシー
気分がのらなくてもできるだけ日記は書こうと無意味に決意する。
でも、たぶん、そのうちまた書かなくなる。そういうことの繰り返し。特に意味はない。

また、「言葉でハートを打て!」に参加しています。
http://necotoco.com/nyanc/bunfreeosaka_ug/kotohato/
の「純文学リーグ」に「セレンディピティー」を掲載していただいています。
もう、前回のでやめようと思っていたのに懲りずに。今また、激しく後悔している。
批判をするわけではないが、こういうのをやっていて思うのは、知り合いが多い方が良いのだろうということで、結局内輪のネタのようになってしまうところがもどかしい。
こうやって同人で書いているアマチュアがたくさんいて、実力がある人、プロにはない癖のあるものを書く人、ニッチな人、とか、色んな人がいるんだなと改めて思ったので、そういうのを、そういうことを知らない人にこそ見てほしい。
とはいえ、私のような、軟弱なんちゃって物書きは、こういうものに参加するだけで普段は交流を持たない人にも見てもらえる可能性が出てくるので意味はあるのだろうが、内内で盛り上がっちゃう感じが否めない。
でも、やっぱり、限界はあるのかもしれませんね。結局、商品として価値があるわけではないから。面白くないとかいうことではなくて、しょせんアマチュアということです。そして、そういった舞台に上がったときにはただ消費されるだけのものになるのも、きっと喜ばれないんだろう。
あんまりこういうことは考えたことがないし、悪口のようになってしまうからもう言わない。

さっき、町内会の盆踊りを見てきた。
町内会に入っていると福引券がもらえるので、一応それを引きに行く。私が子ども会に入っていたときは、浴衣を着て一生懸命盆踊りを踊っていたけど、それも小学二年生ぐらいまでだったと思う。
三年生とかになると、なんか盆踊りダサい、という気持ちも芽生えてくるし、それ以上に子ども会という場所がすごく居心地が悪く感じていた。同学年の子で、女の子が私を含めて三人しかいなくて、あとはみんな男の子。年上の子もなんか苦手だったし、年下の子ともあんまり話したことがなくて、人見知りというわけでもなかったけれど、学校のように自由に振舞えなかった。
子ども会の役員のおばさんも好きじゃなくて、なんかみんな乱暴というか肝っ玉かあちゃんっていう感じで(この年になると役員は大変だろうなってしみじみ思う)、自分の子どもじゃなくても大声で怒ったりしておぞましく思っていた。
というか、学校もそんなに好きじゃなかったなあ、と、盆踊りのぼんぼりを見て思い出していた。
よく一緒に遊んでいたグループの子たちは、私と家が反対方向で、ぼんやりとした疎外感をいつも感じていた。家に帰るまでの数十分で何が深まるのかよくわからないけれど、確かに私以外のあの子たちは仲が良さげだった。うらやましかったなあ。
あんまり同級生に好かれるような性格じゃなかったのもあるかもしれない。私自身が。
夏休みも楽しいような楽しくないようなものだった。長すぎる休みは、今も何をしていいのかわからなくなる。
朝も九時ぐらいに起きると母が掃除機をかけていて、夏休みの友をやろうとしてもうるさいし、暑いし、なーんにもしたくなくって、そうすると母にきんきんと怒られたりして、でも、遊ぼうとなる友達もいなくって。
そういえば、学校のプールが開放されていたから何度か歩いて行った。汗かきながら、後ろからは母が日傘をさしてついてきた。母はプールに入らないで、プールサイドの日陰で私を見ていたと思う。
その日、プールには誰もきていなくて、私は顎が少しつかるぐらいの、深いプールで一人ぷかぷか浮いたり潜ってみたり手で水をはじいてみたりして一人遊んだ。ぴちゃぴちゃとが跳ねる音や手を押し返すその力が好きで、水の中に溶けたいと思った。たった一人だった。
一人が好きなわけではなかったけれど、自分じゃあどうしようもなかった。
でも、同級生や上級生下級生の集まるにぎやかな子ども会も嫌いだった。遠足とかボーリング大会とか秋祭りとか、要所要所で集まりがあってそれに参加していたけれど、本当は行きたくなんかなかった。にぎやかな場所で自分一人になるのが怖かった。いつもそうだった。
盆踊りも、浴衣を着れることだけが嬉しくて、それ以外はどうでもよかった。近くの公民館へ行くのに、隣家の、二つ上のお姉さんと、彼女の妹、私よりも三つ下の子と一緒に行った。同じ町内会に、彼女らのいとこが住んでいて、このいとこも女の子で、私の一つ上の子と、四つ下の子だった。皆、血がつながっていて親戚なのに、そこに放り込まれた私はもちろんよそ者で、あんまり話はできなかった。年上の子たちは年上の子たちで何か話をして嬉しそうに笑っていたけれど、私をそこにいれてくれることはなかったし、年下の子たちも同じで、私はただ彼女たちの後ろから静かに歩いていただけだった。
仲間に入れて、も、断られたら怖かったし、彼女たちが帰るとき、私のことを呼んでくれないことが明確だった。いじめられていたわけではなかったから、たぶん、存在がちゃんと認識されていなかったということなんだろうな。そんなことは多々あるし、十年前以上も前のことだから仕様がない。
夏は、だから、そういうことを思い出させる。元気なくせに、私には悲しい思い出ばっかりだ。
なんかいい思い出あるかな、と思ったけど、大学時代も二か月もの夏休みをすごくもてあましていた覚えがある。でも、あれは楽しかったかも。一日家にいて、小説を書いて、買い物をしに外に出て、友達にご馳走した。

そういう思い出が私にもあってちょっとほっとした。

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