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2015/06/29  「こころ」感想
先日めでたく誕生日を迎え、いつのまにか一つ歳をとっておりました。
そういえばいつも誕生日に前後してよくわからんポエムなんぞを更新していたのにうっかりしていた。また書きたいなあ。全くセンスないんだけど。
それと、チョコミントアイスが好きで猛烈に食べたいと思ったら、昨日買ってきていたのだった。自分、グッジョブです。はい。ということで食べました。

◆「こころ」夏目漱石著/角川文庫◆
「自分は寂しい人間だ」「恋は罪悪だ」。断片的な言葉の羅列にとまどいながらも、奇妙な友情で結ばれている「先生」と私、ある日、先生から私に遺書が届いた。「あなただけに私の過去を書きたいのです…」。遺書で初めて明かされる先生の過去とは?エゴイズムと罪の意識の狭間で苦しむ先生の姿が克明に描かれた、時代をこえて読み継がれる夏目漱石の最高傑作――裏表紙より。
どうして今「こころ」なのか?というのは正直自分の目に留まったからだったんだけども。夏になると本屋の文庫コーナーが賑やかしくなっていいなあと思います。新潮文庫や角川なんかは古い作品ほどとてもアートっぽい表紙に仕上げるからいくらでもほしくなってしまう。「こころ」も、新潮文庫の古いのを持っていると思ってて、角川の手ぬぐいの柄がかわいくて躊躇しながら買ってしまったけど、結局持ってなかったので初こころ所持。むかーし読んだことはあって、もちろんかの有名な「精神的に向上心のないものはばかだ」と発言しちゃうKくんとの事件は教科書にものっているところで、結末すら知っていて、でも、また読んでみようかな、と気がむいて読んでみました。
なんとなく、本当になんとなく覚えているのはとにかく「意味がわからなかった」ということ。いつ読んだのか中学生ぐらいだったのかなあ、内容が全然わからなかったのだけ覚えている。
高校の授業も、あんまりにも有名な「精神的に~」とか「Kが数珠を数える」とか、そういうとこばっかり印象に残っていてどういう解釈したのかすら覚えてないという最低っぷり。
で、改めて読んでみたらめちゃくちゃわかりやすい、というか、読みやすいでないか。言葉が難しいというか、独特の言い回しがあるけれど、武者小路実篤やら三島由紀夫と比べると全然でないか。あの、森鴎外の、「薪を積みはてぬ」(うろおぼえ)みたいなのでもないし、なんだ。読める。それが第一印象。
三部構成(というのもすっかり忘れていた)で、「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」なんだね。「両親と私」なんてすっかり忘れていたけれど、このパート、とても好きでした。「先生と私」読んでいたら、妙に同性愛的に見えてきてしまって、自分の悪い癖だなとおもいつつも、誰かが「昔の海水浴場はゲイの発展場でもあったんだ」みたいな知識を投げ込んできたせいで、ああもう出会いがそこってなんだよ、と思ってしまった。
とはいえ、先生と私はあくまで「友情」とか「親愛」であって恋愛ではない。というのは作中でも語られている。「私」はとても一途で、それだからこそ不思議で魅力的な先生の過去を知りたいと望むけれど、先生はいつか、とはぐらかして、二人はちょっと長い時間は慣れてしまう。私的には「私」にとても感情移入というか、「私」側だったので、先生もったいぶってんじゃねえよ、というか、なんでそう、したり顔なんだよ、みたいなところもあって「私」と一緒にやきもきしてしまった。なんでか、そういう、腹に一物抱えた人ってとても魅力的だよな。
そこから、少し先生から気がそれる「両親と私」。このパートは本当に初めて読むみたいでおもしろかった。両親と私、の関係性があって、その後で先生が自分の家族を語るところがいきてくるな、と思う。私の父親は腎臓を病んでいて、もう長くないからと私も大学を卒業してしばらくは実家にいる。兄弟も帰ってきて、少し騒々しい中で、突然先生から遺書が届く。父親もこん睡状態入ってるのに、「私」は汽車にのって先生のもとへ。ものすごい。
それまでぱらぱら思い出してただけの先生が、急に差し迫ってくるんだから。
で、もっとも有名な「先生と遺書」のパートでKが出てくるわけです。
私は、ここに出てくる人らみんながとても人間臭くて、ゆえにエゴイストであり、負けていて、だからこそ愛らしく、美しいのだと思った。先生との後に結婚をするお嬢さんの、わけのわからないところで微笑む仕草だったりとか、めちゃくちゃ己に厳しいKが思わず「先生」にお嬢さんに恋をしている、と、告白するところとか、そこからの「先生」の前後不覚とも思える焦燥とか、言葉は入り組んでいるように見えて、とてもさわやかな青春なんだなと。まあ結果は血なまぐさいものなんだけど、それもまた、さわやかに見えてしまった。私は。
人が生きていく上で、いろんなことがあって、それが土壌になってその人を形作る、ということを、改めて思ったというか、この話の随所でいろんなものが絡まっているんだということを、感じさせられて、やっぱすごいな~と思うのであった。あんまりにもすとんときすぎてあらすじばかりを語ってしまう、悪い見本の感想だ。
一番好きなのは、お嬢さんが奥さんになってから「私」に、どうして先生はあんなふうに厭世的になってしまったの?私の所為なの?と尋ねて、それを、「私」も慰めるんだけど、結局「私」もちゃんとした理由を知らないから変な慰め方になってしまった、というところ。なんかリアルで。

どうでもいいけど、角川文庫のあらすじが目次の次に書いてあるんだけど、思いっきり結末まで書いてあってびっくりした。初めて読む人には壮大なネタ晴らしだ。文芸賞に応募するときのあらすじじゃないんだから、ここまで書かなくても…と思うはなえなのでした。

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2015/06/20  なにげなく
最近、よくyoutubeで森山直太朗の曲を聞いているのですが、やっぱりいいですね。
声とか歌詞とかなんか色々のこと。
中島みゆきの「糸」をカバーしている動画があって、うっかり泣きそうになってしまいました。人のことを、こうして震わせることができる、というのは、やっぱり才能ですよね。

そういえばブログで拍手をいただいたりしていたようですね(なんか回りくどいな)。
コメントも、いただいていてなんだろうと思ったらなんのことはない営業のメールでした。
こういうのあるとちょっとげんなりする。自分の文章がどうのこうのってことでは、ないからね。まあ当たり前ですね。

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2015/06/14  とびきり美しいやつ
「とびきり」という俗っぽい感じと「美しい」という正しい形容詞の組み合わせが結構ぐっと来たりする。そういう言葉に触れたときに「あ、なんかいいモノ見つけた」とちょっと嬉しい気持ちになる。そういう風に、生きています。

最近、自分というものに肩透かしを食らうことが多くて困惑しているけれど、思うに、おそらく自分が思っているよりも自分は何もできないんだなっていう、そのことに、気付こうとしている気がする。仕事をするでも、人間関係でも、文章を書くということでも、やっぱり突飛なことはできないし、私は私以上の何かを残すことっていうのはできないのだと思う。
人間関係が狭いのも、上手くいかないのも、相手がどうのよりも、自分自身の跳ね返りというか結局相手は自分の鏡であるということに今更気付くというのか。仕事も、もう数年勤めてわかった気になっていても、それに固執してしまっては意味がないというか、知っていることとできること、教えること、知ること、は全然別物で、だから最近生きているということがとても乖離していてすごくすごくつらかった。

先日あんまりにも自分の中の、友人との差がつらくて、文章を書けないことがつらくて、仕事の人間関係がつらくて、何もできないということを知った瞬間、知ること、が、もうとにかくそういうものが全部押し寄せてきて死にそうなほど悲しくなって、会社一歩出てわんわん泣いてしまって、車に乗りこんでからもわんわん泣いてしまって、全然泣きやめなくて、アクセル踏んでも方向指示器はねても信号でとまっても涙が止まらなくて、ああもう私も終りだと結構本気で思ったんだけど別に終わってなかった。
もうこれ以上、自分のことわけわかんないんだったら病院行こうかとほんとに思った。思ったけどたぶん思うだけで、心のどこかでいやいや大丈夫やろうと思っているので、だから、たぶん行かないんだろうし、なんかそういうのここで書くのもずるいな。ずるいってなんやねん。

自分の弱さやもろさに耐えられなくて、年をとるごとにすぐ泣いてしまうようになった。誰かの支えを必要にしているはずなのに、誰かに支えられている人を見るとすぐに幻滅してしまう。誰かを支える人を見ると絶望してしまう。私はそうじゃないのだと信じている。そうじゃない、の、なにが「そう」でなにが「じゃない」のかわからんけど、たぶん、誰かと番になって生きている人と、私はきっと違うんだろうと思う。
仕事の同期で、たぶん、彼氏がいないとどうにもならない子がいる。いなくても、そりゃ生きているんだけど、いないと安定しないとでもいうのだろうか。それに、たとえば職場の先輩。先輩も結婚して、よく奥さんのことを気遣っている。その話を、さも一大事のように言う様に辟易してしまう。当然のことなのに。当たり前のことなのに、誰かを支える人や支えられる人を見ると胸焼けする。

そりゃ私だって、一人で生きているわけじゃない。一人で生まれたわけでもない。だけど、誰が私を致命的に支えてくれているだろうか。そんなの誰、なんて、私は答えられない。私が誰かを致命的に支えているだろうか。はっきり言う。いない。
そういうことに、いつも押しつぶされそうになっている、けれど、私は私以上のことをなし得ないのだ。私が支えないのなら、必要とされないのなら、私は誰かに支えられないし誰かを必要とはしない。私は、私以上のものでも、以下のものでもない。

文章を読みかえしたり書いたりしていて、やっぱり創作畑の人たちのように楽しむことはできないしその畑に間借りすることもできない。私は、私が書けるものしか書けない。それはたぶん、特別なことではない。恵まれた才能もなければ恵まれた環境があるわけでもなく、枯渇しているわけでもなく、熱望しているわけでもない。私は私でいるだけなのだ。ああ、なんてばかげていて普遍的な答えだろう。解法はいつも自分の中にあるのだね。

だからまあ、一時期の気が狂いそうなほどの虚無感からは少し解放されたようなされていないような気がしています。
とびきり美しいものを見つけたい。そういう言葉みたいに。

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2015/06/08  Give me a birth
暗闇の中で手にとったペンは
あなたの骨に似た白いガラスのペンでした

祈るような言葉を
願うような言葉を
ミミズのような字を這わせるから
罫線の間にカラスの鳴き声が詰まっています

金色のトランペット
午後の殺人
深夜のブランケット
悠久の灯火

あなたの瞳の色のインクで文字を書こう
潤滑油には涙を使う
長いまつげがへその緒となり
充電してくれるでしょうコンバーターなしに

暗闇の中で歌った歌は
あなたの悲鳴に似た子守唄でした

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2015/05/31  「痴人の愛」感想
もう5月が終わってしまう…これから嫌いな夏がくる…
と戦いていて、なんだかとってもらちが明かないと思っていたところ、神奈川の近代文学館で「谷崎潤一郎展」がやっているというので先週の土日に行ってまいりました。本当は今週からやっている「中勘助展」にもひかれたのだけど色々タイミング的なこともあって谷崎潤一郎展へ。そもそも、谷崎潤一郎の作品は国語便覧のイメージからすると谷崎潤一郎って「卍」ってレズだし「刺青」ってタイトルだけで過激っぽいし官能小説なんじゃろうと思っていたんですよね。でも、大学時代に「春琴抄」を読んで初めて「こんなフェチズムにあふれているのにどうして清廉な物語だろう」と衝撃を受けて。他にも太宰治や中島敦なんかにも感銘を受けていた時期だったから、大正・明治・昭和初期の、近代文学の全盛期の物語にはなんかもう並々ならぬ崇拝をしている気分です。
で、まあ、そんなことはいいけれど、「春琴抄」以外で読んだことのなかった私。
谷崎潤一郎展に行ったところで何か面白いだろうか…と思ったけれど、いや行って大正解。中島敦展以来二回目の訪問でしたけど、やっぱり作家の中身が垣間見れるのっていうのは最高に面白いですね。
谷崎潤一郎その人が、まるでもう、本当に耽美の人っていうか、生き方がすごい。結婚三回もしてて、女性へのあくなき探究心というのかなあ、マゾヒズムがものすごいね。どうしてこうも女というものに固執して崇拝して耽溺できるのかなというか。でも、太宰治みたいに身をやつしてまで、というよりも、その向き合い方が真っ向勝負という感じなんだよなあ。そりゃやってることはむちゃくちゃですよ。好きな女ができたから嫁さんと別れたり、でも嫁さんが浮気ちょっとしてたらそれを許さなかったり、なんかすごい。なんというか。あと、3mにも及ぶ長い書簡というのがありまして。
三回も結婚している男なので、奥さんも三人いれば子どもも色々いいるわけで、私は途中から妻や子どもの名前が全然覚えきれませんでした。二人目の奥さんにあてた手紙だったか三人目の奥さんにあてた手紙だったかで、自分のことを召使のように扱ってくれ、それでいい、という手紙があって、もうこれはどんだけ探求してるんだと。どんだけ固執してるんだと。すごいですね。小説と自分の性指向というのか、なんかもうすごい色々合致しちゃっている。
見終わった後には谷崎の小説もっと読みたいな~と思ったんですが、ひとまず有名なものをと思い「痴人の愛」にしました。辿りつくまでが長すぎる。

◆「痴人の愛」谷崎潤一郎著/新潮文庫◆
生真面目なサラリーマンの河合譲治は、カフェで見初めた美少女ナオミを自分好みの女性に育て上げ妻にする。成熟するにつれて妖艶さを増すナオミの回りにはいつしか男友達が群がり、やがて譲治も魅惑的なナオミの肉体に翻弄され、身を滅ぼしていく。大正末期の性的に解放された風潮を背景に描く傑作。――アマゾンより。
簡単に言ってしまうと、若くて美しいナオミの自由奔放ぶりに翻弄される河合さんと一緒にやきもきするお話でした。ナオミ以外目立った女性は出てこないんですが、ああ本当に、男はバカだな~と思ってしまう。ナオミはもともとはちょっと陰鬱そうな少女で、そんな雰囲気に河合は「悧巧そうだ」と見染め、ゆくゆくはいい女に育ったら妻にしようともくろんでナオミを引き取るんだけども、ね、全然ナオミの本性が見定められていない。十五のナオミを引き取り、行水させたり勉強させたりするけれど、結局それは「奉公」であって「教育」ではなかったのだと思う。ナオミはきっと女としてとても狡猾だから、結局は養ってもらっているというよりも、河合のことを自分にもっとも尽くす「男」としてしか見ていなかったんだなというのがものすごい感じられる。だけど、河合や、他の男たちは、そのナオミの奔放ぶりやわがままぶりに手を焼きながらも結局は許しちゃうんだから、なんだかなあ、ある種の処女信仰的なものを垣間見ました。というか童貞信仰というか初恋信仰というのか。
そんなナオミなので色々な男を関係を持っていると知っても、河合も馬鹿なもんで、ナオミと関係を持っていた男の子とも意気投合なんかしちゃって「ああでもナオミが~」「ナオミにだまされたんじゃショウガナイ~」みたいなことを平気でお互い言い合って慰め合っている。それがどれだけ滑稽であることか。でも、これこそが谷崎が追い求めていたとかいう「永遠女性」というものなのかな。どれだけばかげたことであると自覚しつつも、姿を追っていられずにはおれない。
河合も、一度はナオミのことをきれいさっぱり諦めるんだとか言いながらも、そういうタイミングを見計らってナオミが手元にやってきて、じらされた挙句になんでも言うことを聞くという誓いをさせられてまた一緒に暮らし始める。ナオミの奔放さに拍車はかかっているけれど、そういう彼女のことを愛していると河合は言うのだから、なんだか男というのはバカでアホだ。
誰かが言っていたのは、男の恋愛というのは一本道で、振り返ると今まで付き合ってきた女たちの顔がすぐに見える。だけど、女の恋愛というのは曲がり道だから、振り返っても今まで付き合ってきた男たちの顔はもう見えない。
時代的にはなおさら、河合にとっては一本道の退路を塞ぐのもナオミ、行く手を阻むのもナオミだった。きっと彼自身がナオミという道を永遠に出られなかったんだと思う。それでいいという。本来なら、征服することを楽しみだと思うはずなのに(と、私は男性をそういう目で見ているけれど)、逆に征服されることを良しとする。倒錯的。
文章はやっぱり流麗で、一つ一つが丁寧だ。内容と相まって、相当の密度だなと思う。
しかししばらくは谷崎潤一郎読まないだろうな。胸焼けしそう。

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