忍者ブログ
どこをみているの
2025/04/27  [PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2015/08/02  「今日もごちそうさまでした」・「ともだちは海のにおい」感想
◆「今日もごちそうさまでした」角田光代著/新潮文庫◆
料理番組とか料理本がとても大好きです。どうしてだかよくわからないんだけど、食べ物が調理されて色を与えられるところとか、まあ、おいしそうに見えるもの全般好きだし、あとは料理する手もとても好きだ。水に濡れて、水滴がついた手、と、料理人の手はすべからく健康的で赤みを帯びていて美しいと思う。
で、そんな私も今更ながら「そういえば食エッセイって気になっていたけど読んだことなかったわ」と最近気付き、高山なおみさんとか土井善治さんの本をぱらぱら見ては「あああ~これはハマるかもしれないけど~~~今は読めるかわかんないから~~~」と思って買わないばっかり。
先日、一時間ほど新幹線に乗る機会があり、つまらんから暇つぶしになんか本でも買おうとコンコースの本屋にふらっと入ったら目に入った「今日もごちそうさまでした」。本当は高山なおみさんの本を買えばよかったのだろうが、しかし、なかったのだ。そういうときに限って!で、直木賞作家だし面白いかな、と、最初の方がちょっと面白げな香りがしたので買ってみました。で、感想としては、別にそんなにおいしそうじゃない、ということ。どうしてだろうか。面白いかというと、そりゃまあ、文章上手だし、目のつけどころ面白いし、そういう意味で「面白い」んだろうけど、食材や料理の「良さ」がなんか感じられないというか、食エッセイの醍醐味である「おいしさ」が全然伝わってこない(醍醐味とか言って食エッセイ読んだことないのに)。まあ、きっと勝手に料理本みたいなのを求めていたのかもしれませんけども。
文章を書く人の、可哀想なところって、文体、だと思う。今回読んでいて思ったのは、食エッセイで料理のお話とか食材のお話がメインなんだけど、どうしたって角田光代の文章になっちゃってて、なんだろうなあ、食や料理が浮き立ってこないというか。面白おかしく(本人は意図していないにしても)かけてしまうから、その分、おいしそうじゃない。そう思うと、文体って、こういう、エッセイには邪魔なんじゃないかと思うわけです。
しかもテーマが料理、だからかも。まずそうでもおいしそうでも、ある程度の興味をそそられるはずなのに、なのに、まったくそそられない。なんでだろう。なんでだろうか。難しい。これが、料理をテーマにした小説なら、全然違うんだろうな。あくまでエッセイだから。面白おかしさとかいらないんですよね。哀愁とか、いらないんですよね。難しいな~
私も、何か小説を書くときに、料理の描写をするときは、できるだけおいしそうにしたいなと思うんだけど、無理だな!と思って大体料理名を出すだけにしてしまう。料理って難しい。

◆「ともだちは海のにおい」工藤直子著/理論社◆
先日、名古屋の古本屋さんで見つけた、大好きな児童書(?)。
昔アマゾンで買おうと思ったらなんでだったかかえなくてものすごいショックを受け、それから探す気もなくしていたのに、見つけた瞬間に問答無用で買うと決めました。同じシリーズの「ともだちは緑のにおい」も好きだったけど、こっちの「海」の方が私は好きだなあ~。
お話は、海に住むいるかとくじらのある日あるときのお話。いるかとくじらが出会って、友人になって、一緒にお茶を飲んだりビールを飲んだりする。いるかの得意な回転やわくぐりをしたり、聡明なくじらが宇宙や真理の話をする。怖い夢を見ると、いるかはくじらの家に行って頭をなでてもらう。二人で人魚にファンレターを書いたりする。
めちゃくちゃかわいい。そして、言葉のぬくもりや切なさに、なんか涙がでてくる。寂しいお話なんて一つもなくて、くじらといるかのかわいらしくておだやかな友情が素敵で、なのになぜか、とても涙が出てくる。耐え切れなくて、何度も何度も、いるかとくじらのセリフを読みかえす。いい。すごくいい。
なんにも難しいことはない。誰かと一緒に想うことを話し、共有して、好きでいる。
そういうこと、全然、できてないな、と、自分に思う。だから泣けてくるのかもしてない。心えぐる。えぐってくるわ…とってもいい本です。

拍手

PR

2015/07/27  ひとりの夏
眠すぎて仕事を放ってきました。パソコンやっててもよく寝ちゃうんだけどそういうときってどうしたらいいのだろう。

昨日、noteに小説を公開しました。「ひとなつ」という作品です。
https://note.mu/losmrn/n/ne6e4661121d4
かなり前にも、サイトで公開していたことはあったのですが、しばらく封印しており、ふとしたきっかけで公開しようと踏み切りました。

もともとこの小説は、私が大学生のときに書いたもので、大学生が主催していた文芸賞に応募して大賞をいただいたときのものです。今更何をと言われるかもしれないが、なんとなく身バレするのが怖くて中々公開できなかった。
ただ、先日の日記でも書いたように、文学フリマで知り合いになった方とふと大学時代の話をしていたときに、この「ひとなつ」のことを思い出して読みかえしたらなんともいえぬ気持ちになり、成仏(?)させたいなあと思って、noteで公開する流れになりました。

いつも、自分の書いたものに対しては、創作をしている身としてはかなり思い入れの薄い方だと自覚はしているのだけど、この「ひとなつ」という作品は少しだけ思い入れがありまして。
もちろん、賞をいただいたこともそうなんだけど、主人公の男の子が我ながらにとても好きなんですよね。あとは、田舎という舞台がとても好きで、そういう趣味嗜好をぎゅうぎゅうに詰めてしまった。
人が虐げられる、ということにとても魅力というか艶っぽさというか色っぽさを感じていて、虐げられた人がそこでもがいてもどうにもならない、ということがたまらなく好きで。よく、どうにもならない環境に置かれても屈しない、みたいな姿が美しく描かれるのだけど、私そういうのあんまり好きじゃないんですよね。なんでだろう。どん底まで落ちて落ちて落ちて落ちて、落ちぬいて、そこに光を見つけてほしい。すげえ無理なこと言ってる。でも、見つけてほしい。そこにあるものこそきっと本当の光だから。希望でも絶望でもいい。自分が自分でいるための、自分の、光を。あとはただたんにボコり愛みたいなもんですわ(たぶんこれが一番)。
主人公の女の子も、結局男の子のためには何もしてあげないんですよね。口ばっかりで。動こうとすらしなかった、と、私は自分の作品に対して解釈を与えるけれど、それもまた、当時の私が見ていた人の姿なのかもしれないし、動ける人なんていないんだろうと思う。人を大切にすることは、面倒で重い。

あとは田舎への憧れというか、自分が大学生になって初めてそういう場所で暮らしたからかもしれません。大学の周りは確かに少しは栄えていたしごちゃごちゃもしていたんだけど、すぐそばには田んぼがあって山があって用水路があってカエルがひっきりなしに鳴いていた。その時初めてヒグラシの本物の声を聞きました。豊かなのに、美しいのに、冷たい。田舎という場所に目覚めたのかもしれない。そういう場所の、物語を、誰もがきっと胸に思う、抱える、暗さみたいなものが好きだった。かけているのかどうかはわからないけれど、自分が美しいと思うものを、とことん書きたいと思ったのでしょう。当時の私は。
月あかりと、あざだらけの少年と、カーディガンと、浴衣と、じめっとした汗くささと。
好きだったんでしょう。というか今こうして並べただけでも、今でも胸にぐっとくる(笑)。

毎回言っているのは書きたいテーマとかはあんまりなくて、こういうものが書きたい、から始まるので、正直「ひとなつ」なんかもテーマ性なんてないんですけどね、それでも書きたいものをぎゅうぎゅうに詰め込んである程度の形になってくれてよかったなと今更思う。

それに、どうしてこの作品が一番好きかというと、おそらく、私が無邪気に書いていた一番最後の作品だからかもしれない。迷いがない。好きだということに。
そりゃちっぽけな賞であっても、誰かに読んでもらって誰かに選んでもらったということはとても名誉なことで、ゆえに私は鼻高々でもあったししんどくもあった。こんな小さな賞でこんなにしんどいなんて、バカみたいだ、という、その気持ちすら私の枷になった。
あほみたいだなあと、今でもその枷につかまったままなんだけど、あと少しはこの枷をつけたまま踏ん張ってみたいと、落ちた先にある光を私も捕まえたいと。思う。

そんなこんなで、まあどうでもいい能書きでした。

拍手


2015/07/26  やさしいこと
「枝豆、塩はいつ振るのが好き?」
「ハルくんはどっち?」
「僕はゆでた後に振るのが好きかな。塩の甘いのがいいなと思って」
「あ、待って、俺は蒸す派。甘くなっていいよ、枝豆」
久しぶりにお互いがゆっくり休める定休日、昼間からビールを飲もうと提案したのは彼の方からだった。いつのまにか信楽さんのための箸や食器が当たり前にそこにあるようになった。少し広めのベランダに、先週彼が持ち込んだウッドテーブルとチェアを置く。つまみは僕が作ると言ったが、信楽さんは枝豆は俺がやるよ、と言ってキッチンに立った。
銀のボウルに枝から切り離した枝豆をざっと放り、塩を、これもまたざっと振る。何度も何度も揉みこむと、枝豆の緑が濃くなり、生き生きとしはじめる。普段、繊細なスイーツばかりをつくる姿を見ているからか、こうしてざっくりと枝豆を扱う姿が不思議だった。枝豆から出る水分で、信楽さんの手の甲がしっとり濡れており、少し艶っぽい。
「濡れた手って、すごくいいですよね」
「なに、ハルくん口説いてるの?」
信楽さんは不敵な笑みでこちらを見たが、目は合わせられなかった。
枝豆に塩が馴染んだら、鍋に移し少なめの水を入れて強火で茹でる。ぐつぐつと煮立ったらすぐ火を止めてあとは蒸して火を通す。枝豆特有の、香ばしいような草っぽい香りがして、すぐにでもビールが飲みたくなる。そんなことを言ったら、酒に合う料理を作るうちに我慢ができなくなってキッチンドランカーになってしまったシェフの話になり、蒸しあがるまでひと笑いした。

「うわ、やっぱ外暑いね」
前日から用意していた小アジの南蛮漬け、セロリと海老のタルタル、鶏軟骨の串焼き、そして山盛りの枝豆をテーブルに並べる。夏の日差しは屋根に遮られていたものの、湿度を含んだ重い熱は汗を一気に呼び起こす。凍らせておいたビールグラスに注いだ黄金色の飲み物は、口から喉、喉から胃へ落ちていき、僕たちを満たしてくれた。
「あー、なんちゃってビアガーデン。なかなかいいね」
「ウッドテーブルなんてよく持ってましたね。あんな荘厳な家なのに、こんな洋風なもの」
「撮影で使ったんだ。なんとなくもらってきちゃったんだけど、今日の日のためだったんだな」
「信楽さんは………よくそんな寒いこと言えますよね」
彼は一瞬きょとんとして、それからけらけら笑った。
「当たり前だろ、好きな子口説こうとしてるんだから」
「口説いてるつもりですか、それで」
「フランスじゃあ当たり前だけどな。ハルくん、慶介って呼んでよ。……まだ、ダメかな」
不意に真顔になった彼は、枝豆を手に取って一粒、二粒、と噛み砕くとビールで流し込んだ。こめかみから汗が流れている。僕の鼻の頭にも汗が浮いていた。ビールをあおる。相変わらず美味い。
「……僕に、信楽さんと一緒にいていい資格が、あるのかは」
「そんなことは、誰も決めない。ハルくんにだって決める権利はないよ。ハルくんは俺じゃない。ハルくんじゃない俺は、ハルくんと一緒にいたいと思ってる。それが、何か、ダメか?……なあ、もう、我慢出来ないんだ。俺、そんなに辛抱強いほうじゃないから」
信楽さんの真っ直ぐな瞳はいつも、真っ向から僕をつかんで離さない。いつも、彼は、僕の腕をつかんでいる。まっすぐ、見つめたまま。僕を、見てくれている。
彼は小さな声でごめん、と言い、また枝豆に手を伸ばす。僕はその手を捕まえて、指を口に含んだ。指先から信楽さんの緊張が伝わる。僕の緊張が伝わったのかもしれない。
彼の指は塩の甘い味がした。

拍手


2015/07/25  With Someone,Without Anyone
そういえば先日の連休はとても楽しくて久しぶりに人間として生きた気がしていた。大袈裟のようだけど大袈裟じゃないんだよ。社会人はときとして生きた屍だからね。

金曜日にお休みをもらって金曜土曜と大学時代のお友達と静岡の大井川鉄道へ。そこまで鉄道とかスキでもないけど、SLってよかったなあ。一昨年は彼女と一緒に名古屋の鉄道博物館へ行って、SLの展示で「風立ちぬ!」とか言って喜んでいたんだけど、本物に乗れる機会があるとは思わなかった。
直立の背もたれにちょっと居心地の悪い硬い座席。こういうものに、昔の人は(先日志賀直哉の「網走まで」を読んでいたのでなんか思い返して胸熱になってた)乗ってたのか~と思うと自分がどこにいても自分の心次第なんだなっていうか、なんかそんなことを思っていた(よくわからない)。
寸又峡という、かなり秘境っぽいところに泊まったのですが、山が近くてとてもよかった。自然が多いところはいいな~と思っていて。
私は地方中堅都市に生まれ育ったため、田舎という場所に並々ならぬあこがれがあるのです。大学時代住んでいた場所は、大学の周辺すらもなんだか辺鄙な場所ばかりで、学生街なのにいつも静かで空が広くて、大好きな場所だったし、同時にめちゃくちゃ他者を拒絶する場所だなとも思っていて。田舎の、そういう、閉鎖的なくせに美しいっていうのがとても好きです。だから、私はどっちかというと田舎を舞台にして物語を書きたがる節があるのだと思う。
(完全に脱線だけど「ひとなつ」「君ありし」「ないおん」「しのぶれど」「かなちゃんとわたし」「さよなら」は完全に田舎への思いが強い)
山から白い煙が出てるじゃないですか。あれはなんだろう。水蒸気なのかな。雲のできそこないなのかな。わかんないけど、ああいうのがとても好き。そしてなんか怖くて。
大学時代のお友達との会話は、いつもいつも楽しくて、なんでこんなに楽しいんだろうっていうぐらい楽しくて、とても幸せになる。大学の子はいつも私の宝でありつづけている。
社会人になっても、もちろん面白い人はたくさんいるし、仲良くしてくれる人はとても尊く思える。思えるけれど、何かが違うのは、みんながちゃんとした大人として接しているからなのかな。私は大人、という、フリをするのはとても大変で、物分かりがいいフリだったりとか、仕事がわかっているフリだったりとか、気が使えるフリだったりとか、なんかそういうものが本当に窮屈で、小さな頃から優等生で生きてこようとした自分が呪わしい。でも、いまさらそのウェットスーツは脱ぐことができない。人に良く見せようとするキグルミは脱ぐことができない。そういうのを、脱がしてくれるのは、大学の子たちだと思う。きっとお互いに、幼い子どものままなんだろうな。

日曜日は文学フリマで知り合ったきりちひろさんと一緒に名古屋を散策。地元とは言えない私も一緒に歩いて、自分一人では見つけられなかったような古本屋に行きました。古本屋ってとてもハードルが高くて、なんていうのか「文学マインドもった奴しかいれねーよ!」っていうイメージがあったんだけど、私以外の誰かと一緒に入るっていう行為に勇気づけられて、入って、なんだ文学マインド持ってないけど怒られない!とほっとしました。
そこで星野道夫の写真集と工藤直子の本を購入してしまった。私はすぐ来れる距離だというのに…でも、星野道夫の写真集はとってもほしくて、ずっと憧れだったので古本だとはいえ安価で購入できたのはとても幸せだったし、ついていってよかった…。あと、工藤直子の「ともだちは海のにおい」も、確か前にアマゾンで買おうとしたら絶版になっていて、すごいショックを受けた覚えがあり、今回であったのは本当に本当に運命だと思ってしまった。この本はめちゃくちゃ大好きで、図書館で毎週借りて読んでいた。貸出期間が一週間なので、毎週借りていた。あわよくば「ともだちは緑のにおい」もないかと探したけど、本屋にはなかったです。ああ、でも「海」の方が私は好きだったから、本当に本当に幸せ。後生大切にしよう。子どもができたら読ませたい。
きりさんとは文学フリマで話したか話してないかも定かではないぐらいショートな接触で、ツイッター上では私が一方的にうざがらみをしており、たぶん、本当に一方的に興味があったので、今回はきっと私得だったな、と勝手に思っている。
言葉の端々に理知さが溢れていて、説明もお上手で、頭が良いんだなと、本当に素直に感じました。頭が良い人の言葉はやっぱり面白いよね。それに、きりさんの言葉選びやイントネーション、なんかが、きりさんっぽくて、「ああ、私、ツイッター上だけじゃなくてきりさんとこうしてお話ができるんだな」って思いました。あほみたいな感想だな。芯が一本とおっておる方でした。小説云々の話は、私が恥ずかしくてあんまりできなかった(笑)

その後は、きりさんに教えてもらった「インターステラ―」を見て、これは全く関係なく個人的に気になっていた「ゲド戦記」を見た。
「インターステラー」はめちゃ長かったけど、それを感じさせない面白さだったしSF映画!って感じで、楽しめました。ところどころ気になる部分はあったし、伏線なんかは「たぶんこうだろうな」っていうのはあったんだけど、それでも最後は大泣きした。
で、これが一番書きたかったんだけど「ゲド戦記」について。これなんだ。この映画。めちゃくちゃ不完全燃焼です。嫌いじゃない、ていうか、テーマ、テーマはいいんだろう。いいんだろうけど。色々突っ込みたい、というか、色々人の感想を聞きたい。と思ってググってみたのに、駄作だっていう感想ばかりで、それもまたもやもやしました。
「メトロポリス」を見たときも思ったんだけど、みんな中途半端だとどこにどう身を寄せていいのかわからなくって。そんなこと考えなくて良い、ただたんに楽しめる娯楽映画ってわけでもなかったし、テーマが重いんだったらもっとどこかにフィーチャーしてくれよって感じで。メインの登場人物みんな中途半端だからこっちは結局悪役の「クモ」が一番はっきりしていてよかったと思う。原作が気になった。
ゲド戦記で有名なのは「命を大切にしない奴は大っっ嫌いだ」っていう台詞だけど、なんかそこで言うの?って感じだったし、主人公・アレンが抱える「死ぬことが怖い」っていうその闇は、結局どこからきたんだろうかっていうこととか。あげればきりがなさそうだ。

あと、そういえば昨日は「バケモノの子」を見てきました。総じてみれば面白かったけど、納得できないところもしばしば。人間の子ども・レン(バケモノ界では九太と呼ばれる)とバケモノの乱暴者・熊徹のハートウォーミングストーリー(?)なんだけど、なんかちょこちょこいらない要素が多い気がして。そこはもっと九太と熊徹の話てよかっただろうが!ってなった。あとジブリ臭がすごかったです。仕様がないのか。まあ面白かったよ。でも、「まあ」が付いちゃう。あれだったらきっと「サマーウォーズ」の方が人気だろうな。

すごい!充実しているように見える!
でも実は昨日は職場で先輩に愚痴っていたら泣くという失態を犯した。恥ずかしくて死にたい。恥ずかしくて、そういう話した後って変に饒舌になるよね。聞いた方も泣いた方も。
話をしていて、先輩は「はなちゃんは1か0しかないから辛いんだろうね」と言われていて。先輩は男で、心に納得しない部分があっても論理的に割り切っていくことができるし、それを自分の糧にもできるようで。私はそこに感情が大きく根深く突き刺さっているからきと何も解決できない。耳をふさいでしまうのは私の方なのかもしれない。
「私はさ、女だから無理なんだと思います。感情的になっちゃうし、嫌いな人とは仕事ができない」「いや、ほら、それがだから1か0かってことでしょ。俺から見たら上手にやれてると思うよ」「外から見て上手でも、中じゃどろどろでもう辛いんですよ。納得できるできないとかじゃなくて、なんかもう、自分自身が頭おかしいように思えてきて」「そうかー」
みたいな会話を延々と三時間ぐらいしてしまった。
1か0かじゃないっていうことを、もちろん私もわかっているつもりだ。白か黒かじゃなくてグレーだって確かに存在する。それを、私も、受け入れられる範囲では受け入れているつもりだけど、でもやっぱり仕事は白か黒かのところが多いと思うし、私が黒を選んでも白を選ぶ人だっている。そういうときに、グレーになりえるのかっていう話、つーか、そもそも白か黒かの問題か?ってことで、私も白を選んで誰かも白を選んだところで、それは自分の目だけで見た色だからね。なんていうのかなあ。黒を白って言い張ることだってできるじゃないですか。そういうのが、しんどい。私には黒く見えるのに、誰かは白だって言い張るんです。言い張るんですよ。で、相手は私が持っているものを黒だと言い張る。私は白だと思うのに。その場合、グレーはどこにも存在しないんだよ。

誰かと一緒にいるということや、誰かと一緒に仕事をするということや、なんだかその他もろもろのことは、私を幸せにしてくれるし、私の首を絞めにかかってくる。どうしろっていうんだ。
みんな好きだけど、みんな嫌いなんだよ。どうしろっていうんだ。

拍手


2015/07/02  明日の服
大体寝る前に明日の服を決めるのだけど、それはちょっと楽しいし、結構無心になれる。服のことだけを見て、服のことだけを決める。そういうのが、好きだ。
でも、やっぱり仕事で疲れてくると全然楽しくないし、億劫だ。そういうときってしかも、あんまり服装のコーディネートがしっくりこないときが多い。生活にでるなあ、と、なんとなくぼんやり思う。

先日、他の方の小説を下読みさせてもらった。初めての体験。未発表のものを読んで、感想をいい、よければ参考にしてもらう、のが下読みだと思う。たぶん。
私は漫画を読むのは遅いのだけど、小説はわりかし早い方。速読レベルではないんですけど、文字を追う速度が速い、し、たまに目がすべってるときもあるから、早いんだと思う(ダメ)。
もちろん下読みは三回読んだけど。
でも、やっぱり第一印象っていうのはなかなかぬぐえないのだなと思って、三回読んだけど感想はやっぱり初見のときのものに引っ張られていたなあと思う。

小説、というのは、本当にいろんなものがあって、自分でも挙げることができないぐらい細分化されていると思う。どこかで見たことのあるモチーフでも、書く人によって雰囲気も内容も変わっていく。モチーフと書き手の数で、いくつもの小説が生まれるのだろう、というのを、今回改めて感じた次第です。
それに、小説というのがすべてがすべて国語の教科書に載っているような、教訓を教えてくれるものばっかりじゃない。あれはいいとかこれがダメとか、そういうもんばっかじゃ、ない。教科書に載っている小説も、教訓めいたものって案外なかったりするのかも。作者の書きたかったことを、教訓めいてとらえることのしやすいものが載っているのかも。なんでもいいけども。
人間性を描いたり、極上のエンターテイメントだったり、悲劇だったり、喜劇だったり、それはもう、いろんなものがある。あるなあ、ということで、げんなりしてる。
私は、「こういう人いるよね」とか「こういうのあるよね」っていうのが書きたい。だから教訓とかはない。教えたいこともない。ただ、共感のみがそこに発生してほしいなと思う。それが、逆に、私にとっての小説というものだったと思う。なんとなく。書き始めた理由なんかはとくにカッコいいものもないし、覚えてもないし、だけど、こうしてちまちま続けている理由は、読んだ人に共感できた、という、その一言をもらうためなんだろう。たぶん。まあそれも数日後にはかわっているのかもしれないけれど。

まあ、でも、書きたいことが何であれ、自分が読むときにそうだからか、第一印象で差をつけろ、じゃないけど、第一印象が決め手にもなると思う。そこで「あ、いいな」とか「お、なんだ」と思われなかったら仕様がない。名作って言うのはそこが違うのかもしれない。第一印象が良くも悪くも残っているなら、その後何度も読まれることになると思う。でも、そこでそれこそ目が滑ってしまうようなものならば、その後は読まれないんだろう。
アマチュアの分際で、どうでもいいようなことですけれど。
私も、読みかえした本なんて今まで数えるほどしかないな。
強烈な印象じゃなくてもいいんだ、「ああ、また読むかもしれない」でもいいから、そういう印象を残せるものがあるといいのかも。わかりません。机上の空論です(言いたかっただけ)。

自分が書けるかどうかなんていうのはこの際どうでもいいのだけども。
そうすると、誇張表現とかなしに、自分の書きたいものを徹底的に書き込むというのは大切なんだろうな、という結論に至りました。自分の中の風景を表出させるには、だって、書き込むしかない。一切の妥協を許さない表現は、誰かをうならせるだろう。
そこに、言葉の使い方の技巧はあまりいらないのかもしれないくて、ただ、丁寧に書き込むということは、私は大切だなと思う。行間を読ませるのもわざだけれど、それは、そこまでの舞台が成立していて、書き手の世界を読み手がある程度共有できた場合にのみ起こりうることで、なかなか難しい。突然ポエムみたいになるようなもんだもの。
なんてエラそうに言っておきながら、自分が反省なのは、突然ポエム小説っていうのが多々あることだ。小説の中のポエムっていうのはある意味逃げで、山場におこりやすい。山場だからこそ明言を避けてドラマチックにいきたいがために、ポエムになってしまう。だけど、山場だからこそ、丁寧に書いて書いて書いて、最後に、行間を使う、ぐらいでないと本当のことは伝わらない。のかもしれない。

なんていうことを、人様の小説を読んで思いました。その人の小説がどうのこうの、というよりも、小説を書く、ということを自分なりに考えるとそういう感じで、なんていう、ただの自分のおしり叩きでもあるんだけどね。あんまりこういうの考えないからな。考えてもよくわかんないし、そもそも日記自体が突然ポエム日記だから、私の場合は。日常から何言ってるかわかんないみたいなことあるよね。こういう話を、いろんな人に話したい。聞いてほしい。聞かせてほしい。

明日の服を選ぶみたいに、明日の言葉を選んでいたい。そのことだけに、真っ向に向き合いながら。

拍手


<<前のページ次のページ>>